曽我ひとみさんの手記。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







アカヒ・デジタル より抜粋。





■時の流れ ―10年を振り返って―

 

「もう10年になるんだなあ」

 


 年が明けて平成24年になった。その日から何度この言葉をつぶやいたことか。その度に色んなことが頭の中を駆け巡る。思い出したくないことは鮮明に浮かんでくる。覚えていたいことは、時間の経過とともにぼんやりとしたものになってくる。あれやこれやと考えているといたたまれない気持ちになり、同時に胸が締め付けられじっとしていられなくなる。この10年という時間の流れの速さ、長さを考えると、自分だけが日本に帰ってきたことへの後ろめたさ、申し訳なさで頭の中がいっぱいになる。正直なところ、私達5人が帰国し、拉致問題が大きくクローズアップされたことにより、他の拉致被害者が続々と帰国してくるものと思っていた。しかしこの10年、これといった成果は見られなかった。拉致被害者を待つ家族の気持ちを考えると、一日一日がとても貴重な時間であり、もう待てないところまで来ている。一体どうずれば解決できるのだろうか。誰も答えを引き出すことなど出来ないのではないだろうか。それほど難しい問題なのだと思う。でも、今の状態がずっと続くことは許されない。何か解決の糸口が見つかってほしいと願うばかりだ。ここで、この10年を振り返ってみる。


18日、墓参りに行き、午後からは高校の卒業証書授与式に出席した。卒業まで半年あまりとなった年に拉致されたのだ。心残りとなっていた問題の一つが解決された喜びがあった。反面、本音を言うと40歳を過ぎて賞状を受け取るのは恥ずかしかった。でも、私一人のために式を用意してくれたことが嬉しく、みんなと同じ卒業生になれたことも最大の喜びだった。関係者のみんなに心から感謝した。式の後は同級会があり、24年ぶりに同級生たちに再会した。みんながそれぞれの24年を過ごしたんだなぁと、一人一人の顔や姿を見て思った。それは、21日参加した小中学校の同級会でも同様の感想であった。中には、「あの人誰だっけ?」と、名前と顔の一致しない同級生もいた。月日の流れは人の記憶を曖昧(あいまい)にするものだと実感した。でも、やっぱり友達というのは良い。会えば一瞬で過去の自分に戻してくれる。友達の存在は、過去も現在も私の宝だと思っている。そうそう、23日の佐渡病院訪問でも嬉しいことがあった。24年間、被ることがなかったナースキャップを着けてもらったことだ。自分の一生の仕事だと思い、勤務し始めた矢先の出来事だっただけに、中途半端で投げ出したことに責任を感じていたが、ナースキャップを頭に載せられた時は、看護師に戻った気分になり嬉しかった。

 

 日本滞在中は、毎日忙しかったが充実していた。北へ帰る時間が迫れば迫るほど、故郷への思い、家族、親せき、友人たちへの思いが捨てきれずに心が痛んだ。かといって、北にいる夫や娘たちへの思いも募る。両方の国にいる愛する人たちの狭間で体が二つあったらどんなにいいかと何度も思った。そんな折、「拉致被害者5人を北へ帰さない」との政府方針が発表となった。一時帰国と思っていた私は、着々と帰る支度をしていたのだ。正直ショックだった。「北に逆らえば、家族はどうなるのか?」。そのことばかりが頭の中をぐるぐる駆け巡る。24年間、逆らうことなく言うがままにしていたから、私は生き延びてこられたのだと確信していた。それなのに、北へ逆らえと日本政府は言うのだ。私の返事次第で家族の処遇が決まると思い込んでいた私は、どうすることも出来ず悩む毎日だった。返事を出せないまま数日が過ぎた時のことだった。日本滞在中に健康診断でも受けたらとのアドバイスもあり、特に悪いところはなかったのだが、せっかくなので人間ドックを受けることにした。その時、先生から「ちょっと肺に気になるものがあります。まだほんの小さな粒程度ですが、もし時間が経って大きくなるようなら手術した方がいいと思います。まずは、一年くらい様子を見ましよう」と言われた。私は、すぐに「肺がん」だと確信した。なぜなら、北にいたとき(ルーマニア人拉致被害者の)ドイナが肺がんで亡くなっていた。初期の症状からずっと見ていた私には、肺に何かがあるというだけで、理解することができたのだ。精密検査をするため組織を取ったが、ほぼ間違いなく悪性だろうと思われた。怖くなった。目の前に「死」が迫っていると感じた。だが、先生が「ほんの初期ですから心配いらないですよ」と言ってくれたので安心できた。これが北朝鮮だったら、私は確実に死んでいただろう。ドイナのように、死ぬ直前まで故郷を思い、二度と故郷の土を踏むことが叶(かな)わなかっただろう。未練を残したまま死ぬことを考えたら、日本に帰れたことを感謝した。

 

 数日後、いろんな悩みを抱えた状態で、北へ帰るか日本に留(とど)まるかの結論を出す時がきた。これまでに、たくさんの人たちが私を説得しに来た。一人で結論を出すのが怖かった。家族の安全が保障されるならすぐにでも返事をしただろう。でも確信のないものに返事はできなかったのだ。両方にいる家族への思い、目分の病気のこと、日本政府を信じてもいいのか、眠れない日々を送りやっとの思いで結論を出した。「日本に留まり、家族を待つ」と決めた。結局、帰国した5人ともに同じ結論を出したのだった。5人が日本に残るということは、私にとって少しでも励みになることだった。でも、私以外は夫婦で帰国している。何かと相談できる相手がいるということだ。私には何でも話せる相手がいない。これは、家族を取り戻すまでの間、かなり堪えた。毎日どこかへ誰かと出かける。この時間は気を紛らすことができたが、帰宅した後は何とも言えない孤独感に見舞われた。「本当にこの選択でよかったのか?」「夫や娘たちは、本当に無事でいるのだろうか?」と心配する毎日だった。ただ、時間の経過とともに、いろいろと世話を焼いてくれる人が現れ、北の家族の情報が嬉しくない形で入ってくることもあった。今思い出しても、あの時が一番苦しい時だったように思う。辛(つら)い日々を過ごしながら、手術の日が迫っていた。実は、私の病気は非公表であったため、当時の真野町役場に箝口令(かんこうれい)が敷かれていた。マスコミの目を盗み、ひそかに東京へ。誰にも気づかれないよう偽装工作をし、入院することに成功した。その後、手術も無事終わりこのまま秘密を維持したまま佐渡で何食わぬ顔をして普段通りの生活に戻ればいいのだと考えていた。ところがこの秘密が、あっという間にバレテしまうのである。当時の関係者がマスコミに話してしまったのだ。さあ、この話を聞いたマスコミは怒り心頭である。支援室とマスコミとの信頼関係はぶち壊しとなり、当時役場の支援室長は窮地に立たされ、結局、町長筆頭にマスコミに謝罪することになってしまった。私の知らないところで、大変な事態となっていたのだ。後日、この話を聞いたときはすでに笑い話となっていたので安心して聞くことができた。当時の支援室長の人柄もあったのだが、私に心配の種を残さないようにしてくれていたのだなと感じた。私にとっては、とても心強い味方であった。今ももちろんのこと、これから先も感謝の気持ちを忘れることはないだろう。


 佐渡での生活を始めてから、何かと忙しい日々を送っていたある時、「旦那さんや娘さんたちが帰ってきたら、佐渡では車がないと不便だよ。免許取ったらどう?」と勧められた。家族が帰ってきたら自分が生活の中心となる。確かにそうだった。当時は、どこへ行くにも送迎付きだったが、正直自分が出かけたい時に勝手に出かけることは出来なかった。いつまでも人を頼ってばかりではいけないと思い、自動車学校へ行くことを決めた。免許取得までにはスケジュールを調整したり手術があったりと少し時間はかかったが、免許証を手にすることができた。嬉しかった。夫や子供たちが帰ってきたら、買い物はもちろんのこと、どこへ連れて行こうかと考えるのが楽しかった。早く運転が上手になることと、佐渡の道路になれるために、頻繁に車で出かけるようにした。今だから暴露するが、初心者マークは4~5年つけたままにしておいた。運転に自信がなかったことから、対向車や後ろについた運転者が気をつけてくれるだろうと思ったのだ。おかげで大きな事故もなく、(車の擦り傷、打撲はあったが)現在まで運転できている。

 

 そんなある日、役場から「一通りのスケジュールも終了したこと、佐渡での生活にもだいぶ慣れてきたことから、少し仕事でもしてみないか」と言われた。確かに、今後についての見通しは立っていなかった。准看護師の資格だけでは、医療現場に戻ることもできない。かといって、それ以外の仕事を経験したこともない。普通の会社員として働くにしても、24年のブランクが大きすぎてちゃんと仕事をこなせる自信がなかった。それでも何か仕事はしたいと思っていた。役場からは「役場で保健師の助手としてどうか」とのことだったので了承した。一つ一つ丁寧に指導してくれた保健師や職員の温かい対応に、仕事をするのが楽しいと感じるようになっていった。そんな中、母を中心とする拉致被害者救出の大集会を島内で開催することとなった。救う会全国協議会、家族会の主だった方たちが出席してくれた。また、国会議員や議連、全国の救う会の会長など、本当にたくさんの人たちが参加してくれた。島民大集会をやってよかったと思った。母への思いは、この後まとめて書くつもりでいるのでここでは触れない。

 

 年が明けた平成16年、「今年こそは事態が進展し、家族が帰ってくるように」と地元の神社へ初詣にいった。昨年も行ったが、何の動きもなかったのだ。頻繁に日朝協議を行っているようではあったが、嬉しい知らせはなかった。毎日淡々と仕事をした。仕事をしている時だけは、何も考えなくてよかったからだ。下手に期待を持つと裏切られた時、立ち直るまでに時間がかかる。北にいた24年間で数えきれないほど経験したのだ。だから期待は半分で毎日を過ごしていた。そんな時である。国から「小泉首相が、2回目の訪朝をする」とのニュースが飛び込んできた。正直驚いたし、嬉しかった。家族を取り戻すという私たち被害者の声を受け止め、行動に移そうとしていたのだ。政府の真剣に取り組む姿勢に、半分の期待が、十分の期待に変わっていった。


 8月23日、佐渡へ向かった。佐渡へ行くことが決まってから娘たちは、「佐渡ってどんなところだ」とまたまた質問攻めだった。想像を巡らせていた佐渡を実際の目で見ることとなった。佐渡に着き、市役所経由で病院へ直行した。初めて見るじいちゃん、初めて見る孫、お互い戸惑っていた。言葉も通じないから、私が通訳した。娘たちが覚えたての日本語で書いた見舞いの手紙を持参していた。上手なことを言えない父であるが、孫からの手紙は嬉しかったようである。薬も効いているおかげで、見た目はとても元気だった。相変わらずの佐渡弁に、娘たちは「初めて聞く言葉だ。あれが日本語か?」と違う国へ来たような感じがしたらしい。確かに、父の佐渡弁は独特であり、通訳が必要だった。父の言葉を標準語に直したり、朝鮮語にしたりと通訳した私も頭の中が混乱しそうになった。

 

 この時は、入院間際だったこと、病状も安定していたこともあり、3日間の滞在で再び上京した。この一時帰郷ですっかり佐渡が気に入った娘たちは、すぐにでも佐渡に住みたいといい、次はいつ戻れるのかとしきりに聞いてきた。一日も早く佐渡へ帰れるに越したことはないと、私自身も定住する日が来るのを楽しみにしていた。上京して間もなく夫はキャンプ座間へ出頭することとなった。これより米軍の指揮下に置かれ、軍法会議に臨むこととなる。処遇が決定するまで時間があるということで、日米関係者の許可を得て再び佐渡へ戻ることになった。約1か月余りであったが、私も娘たちも充実した佐渡生活を送ることができた。父も私たちが見舞いに来るのを楽しみに待つようになり、次の見舞いには「あれがほしい、これが食べたい」と少しだけ甘えるようになった。でも、私には嬉しいことだった。母と私がいなくなってからずっと一人で生きたのだから、これからは親孝行しなくてはと思っていた。だから、少々のわがままも聞いてやろうと思っていたからだ。そんな父も翌年2月に永眠した。亡くなる間際まで、「今度は、母ちゃんが帰ってくる。飛行機に乗って帰ってくる」「母ちゃんが帰ってきたら、謝りたい」と口癖のように言っていた父の顔を今でも忘れられない。結局、母とは永遠に会えないままこの世を去った。ただ、私の家族に会わせることができたこと、最後まで父のそばにいられたことで、父も少しは幸せを感じでくれただろうと思っている。

 

 12月7日、念願だった家族揃(そろ)っての佐渡入りとなった。この日から新しいスタートを切ることになった。娘たちも将来のことを考え、進学することになった。夫も家でじっとしているのが嫌だというので、就職先を探すことになった。