奴隷制度と人種排除。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






ねずさんのひとりごと より。





草莽崛起:皇国興廃此一戦在各員一層奮励努力。 




上の写真は、2009年11月14日の、米国オバマ大統領の天皇、皇后両陛下謁見の際の挨拶のときの写真です。
覚えておいでの方も多いかと思います。
このときオバマ大統領は、握手をしながら腰を90度に曲げて深々とお辞儀をしました。

このことについて、
「米国のプライドが傷ついた」
「外国の要人に頭を下げるのは米国の大統領として不適切」
「米国が日本に屈した」
などという遺憾の報道がたくさんなされた一方、
「大統領でもあり大の大人であるオバマ氏が、当然の礼儀を見せただけ」
「年長者に対する礼儀でしかない」
などといった評論も多数寄せられていたのは、みなさまご記憶に新しいところだと思います。

韓国では、オバマ氏の日本訪問の直後(18日)に韓国訪問が予定されていたことから、
「オバマ大統領が見せた90度のお辞儀は大統領が「東洋式の挨拶」を尊重して行なったものである。
韓国においても当然、同等の丁寧な挨拶が行われるであろう」といった「期待情報」がずいぶんと流されていました。

おもしろいのは、こうした報道に関する韓国の過熱性で、
「日本における丁寧な挨拶が『お辞儀』であり、オバマ大統領はこれを尊重したものであるから、韓国大統領訪問時においても『当然に』『韓国式の丁寧な挨拶』が行われるであろう」などと報じられていたことです。


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それが下の絵で、これはオバマ氏の韓国訪問の前日である2009年9月17日の朝鮮日報に掲載されたものです。

オバマ大統領訪韓 (朝鮮日報)

上が日本、下の絵が「韓国の一般人」と握手しながら「頭で地面を叩いている」オバマ大統領です。

ちなみに、この「頭で地面を叩く」という動作は、韓国における伝統的な外交儀礼で、支那からの使者を迎える際に、これを李氏朝鮮の王族が迎える際に行っていた臣下の礼法で「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)」と呼ばれるものです。

どういうものかというと、「跪(き)!」という号令で、ひざまずいて、一叩、二叩、三叩の号令で、「手を地面について頭を地面に打ち付ける」というものです。
礼法では、これを三度繰り返えすので、都合9回、額を地面に打ち付けることになります。

ある意味、たいへんに侮辱的な礼法ですが、これを明や清の「使者」に対して、朝鮮国王が毎度行わさせられていたわけです。
国王が、明や清の使者に対して、9度も額を地面にぶつけるという卑屈な姿をさらして臣下の礼をとる。
そしてその使者がお帰りの際は、毎年3000人の韓国人美女を性奴隷として明、清の皇帝に献上していたというわけです。

一方、その韓国系美女を受け入れた側の明、清の側の記録に、こうして献上された美女が明国や清国皇帝の皇太子を産んだという記録がみられないこと、および、献上された美女達のその後の運命についての記録がみられないところをみると、その献上された韓国美女たちが、支那でどういう扱いを受け、容姿が衰えてきた後にどういう処遇となったかは、悲しい現実として想像するにあまりあります。

国内に産業がなく、ただ貧しいだけの当時の朝鮮半島では、女性くらいしか支那皇帝への献上物がなかったという現実、そして朝鮮国王の「三跪九叩頭」という卑屈な礼法。
そのことは、女性には生涯名を名乗らせなかったという李氏朝鮮の支配体制というものが、いったいどういう支配体制であったのか、そしてそのような体制が400年以上も続いたという現実は、世界史的にも類例のない人権蔑視の無惨な体制であったということの片鱗を伺わせるものでもあります。

そして長い年月のうちに、いつのまにか「三跪九叩頭」という屈辱的礼法が、なんの抵抗もない「韓国の常識」となっていたことは、明治16(1883)年9月に、当時の李氏朝鮮王が米国に対して派遣した朝鮮全権大使一行の米国アーサー大統領公式訪問の際の様子にも明らかなものとなっています。(下の図)
惨めに思えるのは私だけでしょうか。

朝鮮全権大使一行の米国アーサー大統領公式訪問
朝鮮全権大使一行の米国アーサー大統領公式訪問
(News Paper 1883/9/29)


ちなみに、翌18日には、オバマ大統領が実際に韓国に訪問し、韓国大統領と面会していますが、このときの模様は、まるで「忘れ去られたか」のように、ただその事実があったということのみの報道となりました。
要するに、ただの握手、単なる普通の握手しか行われなかったからです。

前日までの韓国の過熱報道ぶりからしたら、都合が悪くなると「知らん顔を決め込んで、なかったことにしておく」といういつもの韓国の行動パターンそのものとなりました。


さて、話が脱線しましたが、当時、いろいろと書かれたオバマ大統領の90度のお辞儀について、私はこれを、
オバマ氏が「米国大統領として」とった礼であることであると同時に、
世界の差別された黒人種を代表するという思いをこめた挨拶であったとみています。

どういうことかというと、皆様ご存知の通り、米国において黒人は、長い間「差別」され続けてきました。
昨今、在日韓国人がいう「我々は日本人に差別されている」という口先だけのデタラメと異なり、米国の白人の黒人への人種差別は、まさにホンモノの差別です。

つい3~40年前までは、米国において「黒人には傷みを感じる神経がない」などと本気で信じられていました。

1857年(安政4年)には、米国最高裁が、
「黒人ならびにその子孫は、所有者の財産であって、合衆国の市民ではない」
という判決を出しています。

要するに黒人は、人ではなく「動産」だったのです。
動産というのは、売買し、移動させることができます。
そしてオーナーの「所有物」です。

「人」ではなく「物」なのです。
ですから当然に「物」には、「人格権」は与えられません、
そして「人格がない」のですから、これまた当然に「公民権」も与えられなかったのです。
代々米国に住んでいても、黒人は「米国の市民」ではなく、米国にある「物」だったのです。

日本では、米国の黒人差別は、米国第16代大統領のエブラハム・リンカーンが「解放」した、と信じている人が多いようです。
違います。
リンカーンが「解放」したのは「奴隷制度」です。
彼は「人種差別」に反対したのではありません。
「奴隷制度」と「人種差別」は、似ているようで、まったく異なる概念です。

リンカーンの当時の米国経済は、南部諸州が経済の牽引役でした。
米国の北部、西部には産業がなく、一方、南部11州は、綿花栽培で大儲けしていたのです。

米国の南部の農園で生産された綿花は、産業革命を果たして一足早く工業化に成功して世界の富豪国家となった英国にまるごと輸出されました。
英国はこの綿を生地に仕立て、高級紳士服などの工業生産品として世界中に輸出していたのです。

英国製の生地は、世界最高とされ(いまでも英国製生地はそれ自体ブランド品です)、しかも当時の英国は世界の海を制した大国です。
つまり英国文化が世界を席巻していたわけで、それだけに英国製の高級生地や、英国仕立ての服は、世界中で高値で取引されています。
つまり、英国では、生地を作れば作るほど儲かりました。

生地を作れば作るほど儲かるということは、その生地の原料となっている綿花も「作れば作るほど」儲かったわけです。
米国南部では、そのための綿花農園を経営し、広大な地所を利用して、そこに「農奴」としての「黒人奴隷」を労働力をして働かせるという社会制度が確立していました。

南部諸州で綿花農園を経営するのは、白人です。
そして農園は、大規模であればあるほど、儲かったのです。
そして労働力は安ければ安いほど、儲けは大きくなるからです。

意外に思われるかもしれませんが、南部諸州の農園では、黒人労働者(奴隷)たちは、比較的大切に扱われていました。
これは当然といえば当然のことで、農場が広がれば広がるほど、黒人労働者の人数も増える。
人数からいったら、白人の農園経営者よりも、そこで働く農園労働者の方が、圧倒的に人数が多い。
どこの会社でも、経営者の人数よりも、労働者の人数の方が多いのと同じです。

もし、少数の経営者が、大多数の黒人を圧政下に置いたらどうなるか。
反乱でも起こされて、綿花農園に火でもつけられた日には、全財産がパアになります。
ですから、そうならないように、ある面、黒人達を優遇し、ある面、いうことをちゃんと聞くように、厳しくしつけた。
つまりそこには、一定の「共存関係」が成立していたわけです。

映画「風とともに去りぬ」は、ご覧になられた方が多いかと思いますが、主人公の家は、昔の中世のヨーロッパの貴族のように、豪華で多数の部屋を持つ大邸宅です。
が、周囲に城壁はありません。
城壁がないということは、「争いがない」ということです。

そしてその大邸宅の中には多数の黒人の農園労働者たちが生活していました。
なかには、結婚して子が産まれる黒人もいる。
一方、農園は広大ですから、労働効率を考えれば、そこで働く農園労働者は、農園主の大邸宅に住むばかりが能ではありません。
優秀であり、かつ責任感の強い信頼できる黒人には、その者が担当している農園の近くに家を建ててやり、そこを基点として、一体の農園の管理を任せたりもしています。

黒人と白人が、身分は違うのは当然です。
農園の経営者であり、オーナーである一族と、そこで働く労働者なのです。
身分の違いは、当然にある。

けれど、それは差別というより、主従関係に近いものであったし、しかも黒人達は、定年さえない終身雇用で、生涯食うに困らない。
悪いけれど、いまどきの日本のフリーターよりも、よほど生活は安定しています。

黒人達は、仕事が済むと、近くの飲み屋に集まり、そこで、自分たちの民族音楽に、欧米風の楽器をあわせた独自の音楽を誕生させ、それをみんなで楽しんでたりもしました。
そうです。ジャズミュージックです。

当時の南部の黒人労働者たちは、もちろん、農場主とくらべれば生活は貧しかったかもしれないけれど、決して貧困ではなかったし、生活にも余裕があったというのが実情です。

これに対し、南北戦争以前の北部諸州ではどうだったかというと、北部には綿花のような中心となる産業がありません。
人はたくさんいますから、繊維製品の製造業や、日用品製造業、あるいは建設業等々の労働市場は数限りなくあったけれど、それら労働者市場は、白人移民たちの労働市場でもあったわけです。

ではそこに黒人奴隷という私的所有権に基づく労働力が介入してきたら、何が起こるか。
答えは簡単です。
白人労働者の職場が奪われるのです。

白人労働力は、雇用主からみれば、「契約関係」です。
月給は20万よこせ。休みはよこせ。給料あげろ、気に入らなければ会社を辞めると言い出す。
文句ばかり言って働かない。
だからといって殺せば、こんどはコチラが殺人罪です。

ところが黒人奴隷を労働力として採用するとどうなるか。
月給は半分でOK。所有物ですから、生殺与奪の権は、オーナーの側にあり、使い物にならなければ、売り飛ばすこともできるし、殺しても、あくまで「動産」であって「人」ではありませんから、罪になりません。
これは圧倒的な「力関係」となりますから、その分、黒人達にちゃんとした仕事を仕込めば、会社は儲かるようになります。
経営者からみて、こんなに「都合の良い」労働力は、他にありません。

そうした奴隷制度が、北部の町に進出してきたらどうなるか。
これまた答えは簡単です。
北部の白人労働市場は壊滅し、黒人労働力が北部を席巻することになるのです。
そしてこのことは、北部に住む多くの白人の生活を圧迫することになります。

だからこそ、北部の人々は、「奴隷制度」に反対し、黒人を「差別」することによって、北部の労働市場から排除しようとしたのです。

これはどういうことかというと、「黒人を差別する」というよりも、黒人の「存在そのものを否定」するという動きです。
黒人がいるから、白人の労働市場が奪われるのです。
ならば、この世から黒人を消すしかない。

ところが、南部諸州では、次々とアフリカから黒人を連れて来る。
そして南部で何らかの事情であぶれた黒人が、北部に流れて来る。
住み着く。
彼らだって食べなきゃいけないから、労働させてくれるところを探す。
雇う雇用主が現れる。
するとそこで、子が生まれ、ますます黒人が増える。
そして増えた分だけ、白人は職を失う。

だから、排除するしかない。
黒人に対する、米国内の人種差別というものは、だから「差別」というより「排除」の動きだったのです。

これを「人種差別」と書くからわかりにくいのであって、実際には「人種排除」だったと考えると、イメージをつかみやすくなるかもしれません。

しかし、米国自体が、黒人排除論に動くと、困るのは南部11州の農場主たちです。
農奴を使っているから、商売になっているのです。
それが白人の使用人たちにとってかわったら、コストは倍以上につきます。
綿花農園そのものが存続できなくなる。

そこで起こったのが南部11州の、米国からの脱退と、アメリカ共和国の建国、そして南北戦争でした。

南北戦争では、南北合わせて320万の兵力が激突し、たった3年で、両軍あわせて123万人が死傷者を出した凄惨な戦いだったのです。

かわいそうなことに、この戦いに北軍側では、100万人以上の黒人義勇兵が、最前線で戦っています。
彼らは、この南北戦争が、「奴隷解放のための戦い」であり、「人種差別撤廃のための戦い」と信じていたのです。

結果として南部諸州が負け、もとの米国に戻り、そして米国では「奴隷制度」が廃止されました。
しかし、人種差別は、以前より一層、酷いものにかわったのです。

要するにリンカーンの行った南北戦争は、
北部諸州の白人の労働雇用を守るために、
低賃金、終身雇用の労働力である「黒人を排除」することを目的として、
黒人が米国内に増加する温床となっている南部の「奴隷制度」を、
根こそぎ排除しようとした戦い、

である、ということなのです。

ですから、南北戦争で、いっけん、人道主義的にみえる「奴隷制度反対」を主張した北軍は、実のところは、制度に反対していただけで、人種への偏見は、むしろ南部以上に酷かった。
そしてこのことが、義勇兵として参加した黒人を、前線で数多く死においやり、結果として両軍合わせて123万人というとほうもない死傷者数となった、というわけです。

そして南部の綿花栽培における「格安労働力」としての「黒人奴隷」が法的に禁止となると、黒人は法的には白人と同じ高コストな労働力となり、南部の綿花栽培を衰退させ、さらに、黒人の大量の失業者を産み出す結果となります。

そして人種差別は、人種排除の動きとなり、しかも黒人には「公民権」は与えられていないままですから、差別は一層過激なものへとなっていきました。
黒人奴隷は、農園主の貴重な財産としての「終身雇用財産」ではなく、単なる「人種排除、人種差別」の対象となっていったのです。

米国が、黒人に公民権を与えたのは、南北戦争から100年も経った昭和39(1964)年のことです。
では、その100年の間に、米国では何があったのでしょうか。

米国における黒人差別の実情については、さまざまな本も出ているし、ネットでも黒人問題等で検索すれば、たくさんの記事がヒットしますので、そのあたりは、是非、ご自分でお調べ下さい。
当ブログでも、過去記事
「公正な世界を目指して戦った日本」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-642.html
で、デュボイスの例をひいて、黒人差別の実態について書いていますので、ご参照いただければと思います。

問題は、奴隷解放をしたはずの南北戦争から、100年も経ってから、なぜ、黒人は差別の対象から米国市民としての「公民権」を与えられるようになったか、ということです。

実は、ここに日本が深く関係しています。

第一次世界大戦が終結した大正8(1919)年、第一次大戦の惨禍を再び繰り返すことがないために「国際連盟」を創設しようという「パリ講和会議」が行われました。

このとき、米国の黒人たちが最大の注目したのが日本です。
日本は、国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという、その時点ではまさに画期的な提案をかかげて、戦勝国の一員そてい講和会議に出席しています。

この講和会議に出席する日本の全権使節団は、パリに向かう途中、ニューヨークに立ち寄りました。
本来ならば、パリに向かうなら、インド洋を回るルートが早道です。
けれど、日本の使節団は、あえて別ルートで米国をまわったのです。

これには理由があって、人種差別撤廃を図りたい日本の使節団は、講和会議の議長役となる米国のウィルソン大統領に、あらかじめ根回しをして人種差別撤廃への協力を求めようとしたからです。

ですから、この日本の訪米は、長年人種差別と戦ってきた米国の黒人社会が大絶賛しています。
「ボストン・ガーディアン」紙の編集長モンロー・トロッターなど、黒人社会の指導者4人は、日本の使節団に「世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくす」ことに尽力してほしい、という嘆願書まで渡しているのです。

「われわれ(米国の)黒人は講和会議の席上で“人種問題”について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである。」
これは、全米黒人新聞協会が発表したコメントです。
人種差別に苦しむアメリカ黒人社会は、有色人種でありながら世界の大国の仲間入りした日本を、人種平等への旗手と見なしていたのです。

当時、ロサンゼルスの日系病院の医師のうち、二人が黒人だったことについて、やはり黒人紙の「カリフォルニア・イーグルス」紙は次のように述べています。

「ほとんどの病院が黒人に固く戸を閉ざしている昨今、日系人の病院がどの人種にも、門戸を開放していることは本当に喜ばしい限りである。
同じ人種の医者に診てもらうことができる安心を患者は得ることができるのだから。」

そもそも日本人というのは、人種差別という概念を持ち合わせていません。
誰であれ、親しく真面目に接してくれるなら、胸襟を開いて友となる。
それが日本人です。

1923年の関東大震災では、ある黒人が「シカゴ・ディフェンダー」紙に「アメリカの有色人種、つまりわれわれ黒人こそが、同じ有色人種の日本人を救えるのではないか」と投書します。

それを受けて同紙はすぐに日本人救済キャンペーンを始めた。
「たしかに我々は貧しい。しかし、今、お金を出さなくていつ出すというのか。」

同紙の熱心な呼びかけは、多くの黒人の間に浸透していきます。

万国黒人地位改善協会は、「同じ有色人種の友人」である天皇に深い同情を表す電報を送り、また日本に多額の寄付を行った。

「シカゴ・ディフェンダー」紙のコラムニスト、A・L・ジャクソンは、長い間白人たちの専売特許だった科学や商業、工業、軍事において、飛躍的な発展を遂げようとしていた日本が、震災で大きな打撃を受けたことにより、黒人もまた精神的な打撃を受けた、と分析しました。

なぜなら「日本人は、それまでの白人優位の神話を崩した生き証人」だったからだといいます。

1936年、イタリアがエチオピアを侵略します。
アメリカの黒人たちは、アフリカ唯一の黒人独立国を「最後の砦」として支援しようとします。
アメリカ政府の消極的な姿勢に比べて、日本が国際連盟以上にエチオピア支援を訴えた事が、アメリカの黒人たちの心を動かしたのです。

「シカゴ・ディフェンダー」紙は、日本の宇垣一成大将が、
「イタリアとエチオピアの争いでは、日本は中立になるわけにはいかない」
「エチオピアの同胞を助けるためには、いつでも何千という日本人がアフリカに飛んでいくだろう」と明言したことを伝えています。

また「ピッツバーグ・クリア」紙は、エチオピアに特派員を送り、エチオピア兵が日本でパイロット訓練を受けたこと、戦闘機の提供まで日本が示唆していたことを特ダネとして報じました。

そして何よりも黒人たちを感激させたのは、エチオピアのハイレ・セラシェ皇帝の甥、アライア・アババ皇太子と日本の皇族・黒田雅子女史の結婚の計画です。

これは実現には至らなかったものの、日本がエチオピアとの同盟関係に関心を寄せていた証拠でもりました。

シカゴ・ディフェンダー紙は、
「海を越えた二人の恋は、ムッソリーニによって引き裂かれた」と報じています。

「20世紀の日本人-アメリカ黒人の日本人観」の著者、レジナルド・カーニー博士(黒人史専攻)は次のように我々日本人に呼びかけています。

「歴史上、日本人が持ち得たもっとも親しい友人、それがアメリカ黒人だった。・・・この本を読んでいただければ、日本の政治家や知識人たちが黒人を差別する発言を繰り返したときに、なぜ黒人があれほどまでに怒り悲しんだかを、心から理解してもらえるはずである。」

パリ講和会議における日本の提案は、当時の白人社会にはとてつもなく大きな爆弾であったといえます。

国富の大部分を、人種差別と植民地政策によって得ていた欧米資本家や貴族たちにとって、植民地を失うということは、すなわち国家の崩壊であり、資産家たちの破産を意味するものでもあったのです。

それだけに、人種差別撤廃を堂々と主張する日本は、彼らにとって、どうしても許すことのできない相手でした。
そしてパリ講和会議での日本の「人種差別撤廃法案」は、16カ国中、11カ国の賛成を得ながらも、議長であった米国大統領ウィルソンの「全会一致でない」という詭弁によって退けられてしまったのです。

怒った全米の黒人たちは、全米で数万人もの負傷者を出すほどの大規模な暴動を続発させています。

日本の主張した「人種差別撤廃」の主張は、単に日本人が欧米と対等につきあえること願ったというだけでなく、貧しく、差別された世界中の人類が、肌の色を越えて「四方の海はみなはらから」なのだという陛下ご自身のお気持ちが国民の意思、国家の意思となったものにほかなりません。

けれど、米国の黒人差別は、その後も長く続きました。

パラオ、アンガウル島の玉砕戦を生き残った舩坂弘さんが書いておられるのだけれど、米軍の攻め方というのは、はじめ艦砲射撃やら航空機からの爆弾投下で、徹底的な爆弾による破壊を試みる。
そして上陸して日本軍の弾の当たるところに最初に出てくるのは、いつも決まって「黒人歩兵部隊」だったといいます。

戦争ですから、先頭にたつ歩兵は撃たれます。
そして先頭の部隊が撃たれることで、敵の居場所がわかる。
わかったら、そこを(弾の飛んで来ない)艦船から、艦砲射撃で攻撃する。
そして日本軍の弾が飛んでこなくなる頃になってやっと、白人の掃討部隊が前線に出て来る。
それが当時の米軍の戦い方でした。

テレビや映画などでは、実際のこういう姿は、まず出てきません。
白人の兵隊が勇敢に銃を撃ち、日本軍と戦っているというようなシーンしか出てきません。
けれど、実際の戦闘では、常に敵弾の届く危険なところには、黒人兵が狩り出されています。

真珠湾攻撃の総指揮官だった淵田美津雄大佐は、自伝で次のように述べています。

終戦直後のある日、3人の大柄な黒人兵がやってきた。
そしていきなりジープに乗れと言った。
相手は武装した黒人兵、こちらは丸腰です。
生きて帰れないと覚悟した。

淵田大佐は、こうして30分ほどジープにゆられ、丸の内の郵船ビルの裏手に連行されます。

そのころ郵船ビルは、米軍将校たちの宿舎に充てられていたのだそうです。
そしてビル内には、米軍の白人将校向けのバーまでしつらえてあった。

淵田大佐を連行した黒人兵たちは、そのバーで働かされている兵隊だったのだそうです。

バーの楽屋裏に連れ込まれた淵田大佐は、そこに集まった大勢の米軍黒人兵たちから大歓迎されている。
食いねえ、飲みねえ、と、それはそれはたいそうな歓迎だったのだそうです。

そした彼らは異口同音に言った。
「真珠湾攻撃を誰が一番喜んだと思う?」
「それは、われわれ黒人だよ」

当時、米軍兵士と日本人との交流は米軍ないで固く禁止されていました。
その禁を破ってまで、彼ら米黒人兵たちは淵田大佐を真珠湾攻撃隊長と知って、大歓迎したのです。

日本が行った大東亜戦争というものは、極力平和的手段の限りを尽くして人種の平等、人類の平和と、人種と民族の独立自尊と共存共栄を図ろうとしてきた日本が、人種差別絶対の世界のなかで、嬲られ、痛めつけられ、万やむを得ず、乾坤一擲の大勝負を挑んだ戦いでした。

強力な日本軍というイメージが先行している昨今ですが、たしかに日本は強かったけれど、その戦いは、常に日本の10倍、20倍、しかも圧倒的な火力を持った諸国を敵に回しての戦いでした。

そしてこの日本が行った勇気ある戦いによって、戦後、次々とかつての植民地であった民族が独立し、国家を形成するようになり、そしてその動きが、米国内においても黒人たちの公民権獲得運動へと繋がり、結果として、二十一世紀になって、黒人の米国大統領が誕生するに至ったわけです。

いいかえれば、黒人のオバマ氏が米国の大統領となったという背景には、高らかに人種の平等を掲げた、明治天皇、大正天皇、昭和天皇、そして今上陛下に至る我が国ご皇室と、そのご皇室をお守りせんとして勇敢に戦った日本という国家の存在にいきつくからです。

だからこそオバマ氏は、米国大統領として、そして人類を代表する思いで、あの挨拶をしたのでした。

そのとき韓国は、天皇に90度の最敬礼をとったオバマ大統領は、韓国ではきっと「三跪の礼」をとって挨拶してくれるに違いないと勝手な妄想にふけったようだけれど、そういう下品な感性しかもたないから、韓国人も韓国も、世界から嫌われるのです。

そしてこのことは、私達日本人に対してさえも、強力な自省を促します。
なぜなら、我々日本人が、このまま韓流ごり押し、売国メディアや日教組の反日偏向教育などによって、我々自身の民度を下げたとき、我々日本人もまた、昨今の韓国人や、世界中で総スカンを食っている反日支那人同様、「見下げ果てた民族」とみられるようになってしまうからです。

未来は、過去と現在の延長線上にあります。
我々現代人は、父祖の勇気と信義あふれる行動によって、戦後67年の平和と、豊かな暮らしを手に入れることができました。

けれどこのままでは、私達現代人は、未来を担う子や孫の生きる未来に、誤った歴史観で反日を刷り込まれ、民族としての自覚もアイデンティティを失った、奴隷というより、ゾンビとして生きるしかない、貧しい未来を与えることになってしまいます。

人は変わることができます。
国家もまた、人によって構成されているものである以上、人によって変えることができます。

日本を取り戻す。
それは、私達が、私達の祖国のアイデンティティを取り戻す戦いであると、私は思っています。