「Get out」と言える日本。
夕刻の備忘録 様のブログより。
日本は「長い歴史と伝統」を誇る国である。「長い歴史と伝統」が存在する、ということは、あるものは堆積し、またあるものは堆積せずに流れていった、その結果、今があるということである。小さな出来事であれ、小さな物であれ、日本人が大切だと感じた対象は、積み重なって文化の基礎になり、一時の流行は、まさに流行として消えていく。
それが「日本文化」という一つの方向性を持ったものにまとまったわけである。人為的なものは少なく、為すがまま、ありのまま、の集積が自然と大きなものに育ってきた。それが日本文化の特質である。
こうした素地があるために、我々日本人は、好いことも悪いことも、一時的なものとして忘れてしまう傾向が強い。所謂「風化」である。それは驚くほどの速さで進んでいく。近年では、とりわけ「精神的な負担」になるものの風化が速い。その風化速度は、ゆっくりと叮嚀に考える人にとっては、それそのものが「精神的な負担」になるほど速いのである。
従って、敵は必ずこの点を突いてくる。日本人の「忘れっぽさ」「人の好さ」、否定的に捉えれば、「精神的な負担を避ける傾向」を目標に、工作を仕掛けてくる。
一方的に殴り掛かっておいて、「あれは悪意は無かった」「偶然だった」「今後はやらない」などと嘯けば、それで通ってしまうのが今の日本なのだ。その理由の一つは、殴り掛かられる意味が分からないからである。その意味を考えている中に、「悪意は無い」「偶然だ」と畳み掛けられると、もう面倒臭くなって「事故扱い」にして、忘れてしまおうとする。これで相手の「殴り得」となる。
我々日本人は「善意を捨てる時代」を迎えている。少なくとも「外交に善意は通用しない」ことを知るべきである。特に、周辺国との関係に恵まれない我が国において、このことを理解しないことは、いよいよ致命傷になる。今こそ
「言うべきことを言い」
「為すべきことを為す」
のだ。これこそが「民間防衛」の基本である。
★ ★ ★ ★ ★
かつて一世を風靡した著作『「NO」と言える日本』を思い出して頂きたい。知らない人は検索すれば、wikipediaの冒頭に要約が出て来るはずである。それは
という書き出しで始まっている。即ち、日米関係において、「NOと言うべきことは言い」、それを行動で示せという、当り前の主張をまとめたものであり、アメリカが常に日本に強いてきた同じことを、僅かに「小声」で主張した程度のものである。しかし、それでもアメリカ議会では大きな騒ぎになった。このことが既に、日米関係のアンバランスを示していると言えよう。やはり言うべき時には「NO」と言うべきなのだ。僅かにこの一書で、アメリカは動揺したのであるから。
今我々日本人にとって、最も重要なことは、「言いたいことを言う」ことであり、「不正は不正として指摘する」ことであり、「暴挙は暴挙として糾弾する」ことであり、それでも聞かない相手には「お引き取り願う」ことである。即ち
「Get out」と言える日本
になることが最重要の課題である。この言葉には様々なニュアンスがある。その口調により意味が変わる。ここでは、一番我々に馴染みのある意味として言う。
そこで本ブログから、有力ブロガーの皆様へ御願いする。以上の主旨に沿った記事を書かれた際には、この「表題」を附記して頂けないだろうか。ツイッターを利用されている方は、タグに使って貰えないだろうか。そうすば、この言葉で検索した時、関連する記事が一望出来るようになる。それはそのまま一冊の著作に匹敵するだろう。そして、何処かの国が動揺するであろう。まさに集合知の見せ場である。
周辺国の「悪意に充ちた企て」を、「暴言の数々」を絶対に風化させないためにも、我々は常に意識的に、こうした見解をまとめて更新していく必要がある。日本人は古来より「記録する民族」である。決して大きな声では騒がないが、全てを冷静に記録し、それを世界に発信する。静かに、叮嚀に「異物を体外に排出する」文化であらんために。これを新しい歴史に、新しい伝統にするために。
それが「日本文化」という一つの方向性を持ったものにまとまったわけである。人為的なものは少なく、為すがまま、ありのまま、の集積が自然と大きなものに育ってきた。それが日本文化の特質である。
こうした素地があるために、我々日本人は、好いことも悪いことも、一時的なものとして忘れてしまう傾向が強い。所謂「風化」である。それは驚くほどの速さで進んでいく。近年では、とりわけ「精神的な負担」になるものの風化が速い。その風化速度は、ゆっくりと叮嚀に考える人にとっては、それそのものが「精神的な負担」になるほど速いのである。
従って、敵は必ずこの点を突いてくる。日本人の「忘れっぽさ」「人の好さ」、否定的に捉えれば、「精神的な負担を避ける傾向」を目標に、工作を仕掛けてくる。
一方的に殴り掛かっておいて、「あれは悪意は無かった」「偶然だった」「今後はやらない」などと嘯けば、それで通ってしまうのが今の日本なのだ。その理由の一つは、殴り掛かられる意味が分からないからである。その意味を考えている中に、「悪意は無い」「偶然だ」と畳み掛けられると、もう面倒臭くなって「事故扱い」にして、忘れてしまおうとする。これで相手の「殴り得」となる。
我々日本人は「善意を捨てる時代」を迎えている。少なくとも「外交に善意は通用しない」ことを知るべきである。特に、周辺国との関係に恵まれない我が国において、このことを理解しないことは、いよいよ致命傷になる。今こそ
「言うべきことを言い」
「為すべきことを為す」
のだ。これこそが「民間防衛」の基本である。
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かつて一世を風靡した著作『「NO」と言える日本』を思い出して頂きたい。知らない人は検索すれば、wikipediaの冒頭に要約が出て来るはずである。それは
『「NO」と言える日本』とは、日本の経済発展の気運の中ソニーの会長である盛田昭夫と政治家である石原慎太郎によって共同執筆された1989年のエッセイである。アメリカ合衆国のビジネスの方法に批判的な目を向け、日本が多くのこと、ビジネスから国際問題にまでに関して他国に依存しない態度を取ることを主張していることで有名になった。
という書き出しで始まっている。即ち、日米関係において、「NOと言うべきことは言い」、それを行動で示せという、当り前の主張をまとめたものであり、アメリカが常に日本に強いてきた同じことを、僅かに「小声」で主張した程度のものである。しかし、それでもアメリカ議会では大きな騒ぎになった。このことが既に、日米関係のアンバランスを示していると言えよう。やはり言うべき時には「NO」と言うべきなのだ。僅かにこの一書で、アメリカは動揺したのであるから。
今我々日本人にとって、最も重要なことは、「言いたいことを言う」ことであり、「不正は不正として指摘する」ことであり、「暴挙は暴挙として糾弾する」ことであり、それでも聞かない相手には「お引き取り願う」ことである。即ち
「Get out」と言える日本
になることが最重要の課題である。この言葉には様々なニュアンスがある。その口調により意味が変わる。ここでは、一番我々に馴染みのある意味として言う。
そこで本ブログから、有力ブロガーの皆様へ御願いする。以上の主旨に沿った記事を書かれた際には、この「表題」を附記して頂けないだろうか。ツイッターを利用されている方は、タグに使って貰えないだろうか。そうすば、この言葉で検索した時、関連する記事が一望出来るようになる。それはそのまま一冊の著作に匹敵するだろう。そして、何処かの国が動揺するであろう。まさに集合知の見せ場である。
周辺国の「悪意に充ちた企て」を、「暴言の数々」を絶対に風化させないためにも、我々は常に意識的に、こうした見解をまとめて更新していく必要がある。日本人は古来より「記録する民族」である。決して大きな声では騒がないが、全てを冷静に記録し、それを世界に発信する。静かに、叮嚀に「異物を体外に排出する」文化であらんために。これを新しい歴史に、新しい伝統にするために。