文芸批評家、都留文科大学教授 新保祐司
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120913/art12091303270003-n1.htm
今年は、明治天皇崩御百年である。ということは、乃木大将の殉死からも百年である。9月13日の御大葬の日に乃木大将夫妻は自刃したのであった。明治大帝のご遺徳を偲(しの)ぶ文章や催事の記事は眼に入ってくるが、乃木大将についてはそれほど回想されていないようである。ここに現代の日本人の精神の重大な欠陥が露呈している。
≪没後百年、大事な節目の年≫
「戦後民主主義」の呪縛から逃れ、日本人の精神の再建に取り組んでいかなければならない今日、乃木大将という人間とその精神をどう捉えるかは核心的な問題であり、それを受け継いでいけるか否かは世界の歴史に果たして今後、日本という文明が残っていけるかどうかの試金石となるであろう。
昭和13年の、東京帝国大学の学生生活調査のうちの「崇拝人物」では、乃木は4位に入っている。1位は西郷隆盛、2位は吉田松陰、3位はゲーテである。以下、楠木正成、野口英世、寺田寅彦、パスツール、ベートーベンといったところである。今昔の感に堪えないが、これを戦前だったからといってすますことはできない。昭和45年頃のNHKの調査「私の尊敬する人物」の、やはり4位に乃木が入っているからである。
だから、没後百年という大事な節目の年にもかかわらず、乃木が一般に回想されないという事態は、日本人の精神史に極めて大きく深い断絶が起きたということであり、これは日本の文明の深刻な危機を意味しているのである。
乃木大将を回想するといってもそれは、戦前の「軍神」としての乃木を蘇らせることではない。逆に「愚将」として批判された戦後の乃木像をもってよしとするのでもない。乃木大将という人物の核心を受け止めることである。
≪内村と並ぶ明治の純粋理想家≫
橋川文三の『乃木伝説の思想--明治国家におけるロヤルティの問題』(昭和34年)は乃木大将の精神を深く探究したものであるが、ここで私が問題にしたいのは「ロヤルティ(忠誠心)」である。人間が人間である根本的な根拠に、忠誠心がある。人間は自己の外部にある対象に対して忠誠心を抱くことによって、初めて自己を持つことができるという逆説的な存在である。今日の精神の危機はこの忠誠心の喪失である。そもそも忠誠心が希薄であるか、あるいはその対象がそれに値しないものであるか、のいずれかである。
小林秀雄は、昭和16年の『歴史と文学』の中で、「僕は乃木将軍という人は、内村鑑三などと同じ性質の、明治が生んだ一番純粋な痛烈な理想家の典型だと思っています」といった。乃木将軍といえば、日露戦争の旅順攻略戦であり、内村鑑三といえば、日露戦争のときの非戦論である。全く対極にあるように見える。しかし、この2人を並べて「同じ性質の、明治が生んだ一番純粋な痛烈な理想家の典型」と喝破するところに小林の端倪(たんげい)すべからざる批評精神があらわれている。乃木大将を「軍神」と崇(あが)めて、一方、内村を非国民として嫌っているような浅い単純な捉え方では、乃木大将の精神の悲劇も近代日本の悲しみも深く把握することはできない。
「明治が生んだ一番純粋な痛烈な理想家の典型」と小林が乃木と内村についていうとき、それは2人の忠誠心が「純粋な痛烈な」ものだったことを指している。2人の「理想家」の忠誠心の対象は、異なるものだったとしても、その対象である「理想」への献身は「純粋」で「痛烈」であった。
≪人間として高貴な価値の実現≫
明治の批評家、北村透谷は、「想像と空想」というエッセーの中で、「吾人もし徒らに現実を軽んじて、只管(ひたすら)空理空論に耽(ふけ)ることあらば、人間として何の価値あるを知らざるべし」として、「空想に耳を傾くるは、今日を忘れ又た明日をも忘れんとするにて、人間として戦ふべき戦場を逃出でんとする卑怯(ひきょう)武士に過ぎず」といった。乃木も内村も「人間として戦ふべき戦場」で「理想」のために「痛烈」に戦った人であり、「空想」に逃げる「卑怯武士」ではなかった。
自己に対して忠誠であることは、「戦後民主主義」のイデオロギーの一つであろうが、自己に忠誠であることは、忠誠がそもそも自己の外部にあるものを対象にするものであるから、成り立たないのである。この矛盾を矛盾として感じないのは「戦後民主主義」という「空想」の中にいるからである。そして、この矛盾の中に長く生きてきたために、日本人の自己はついに自家中毒を起こして、腐敗あるいは自壊してきている。
しかし、今後の日本人が人間としての高貴な価値を実現していくためには、忠誠心を回復しなくてはならず、その対象を「空想」のうちにではなく、「純粋な痛烈な理想」のうちに見いださなくてはならない。この忠誠心の「一番純粋な痛烈な」典型が、乃木大将という人物に具現されている。没後百年の今日、現代の日本人は乃木大将の精神を小林秀雄的にいえば「上手に思い出」さなくてはならない。
(しんぽ ゆうじ)