「義」忘れ、「いじめ」蔓延。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【一服どうぞ】裏千家前家元・千玄室





よく「事勿(ことなか)れ」という言葉が用いられる。何か事が起こると必ずこの言葉が引用されるのだが、逃げ場を作っているようで嫌な感じがする。相変わらず学校での「いじめ」がのさばっている。昔から「いじめ」はどんな社会にでもあった。けれど戦後の「いじめ」は陰鬱なものを醸し出した。言葉だけの「いじめ」はもちろん、行動による「いじめ」をされた方はたまったものではない。周囲の子供たちも見て見ぬふり。先生も真剣にならない。親が気付いて警察に届けてもいろいろな理由で後回しにしてしまう。何の罪もない少年を自殺に追いやったり、反対に完全にグレてしまって悪の世界に入ってしまう者もでてくる。親はきまって「自分の子供に限って…」などと子供をかばう。

 子供を溺愛することで脆弱(ぜいじゃく)な意志の弱い体質を作ってしまうことを親は知らなければならない。民主主義の誤った教育が、日本を全体的に「我(が)」のみがまかり通るような世にしてしまった。そして、人間がその国の協同社会の中で生かされ住むために必要な、大切な義務を教えることをどこかへ置き忘れてしまった。

 アメリカにおいて義務すなわちデューティは、デュー(due)が責任を伴ってなされるときに使われる。このデューの責任というなかに当然レスポンシビリティが含まれているのである。それは、なすことに対しての責任を果たさなければならないという意味に他ならない。

 簡単にデューティとかレスポンシビリティというが、それはそれをする人の心構えを強く表に出すのであり、それだけに重い言葉である。日本で用いる義というのは羊に我と書く。羊は美・善というように良いものを表している。だから義は良きすばらしい人に迷惑をかけない人間を表すことになる。「他人事」と書いてよそごととも読むが、自分のこと以外に何か起こると自分でなくて良かった他人でと思う。こうした風潮は何も日本だけではない。英語では「アザー・ピープルズ・ビジネス」といい、「私の仕事ではないよ」と何か頼んだりすると体(てい)よくあしらわれる。

学校でいろんなことが起これば当然教師がそれを処理しなければならない。教えることだけが先生の仕事すなわち義務ではない。そこには生徒に関し、また学校に関することのすべてを良き方向へ導こうとする責任がある。昔は師範学校や先生を養成する青年学校など、教え導くための魂を教導する学校があった。戦後それがなくなり一時は教養なる言葉での先生づくりの基礎学科もあったが、今はまたそれを教育改革など上の空の改革で変えてしまった。

 私もかつて中央教育審議会や大学審議会などの委員を務めた。その都度、教師の養成機関、例えば師範大学を設けることを申してきたが、なかなか取り上げてもらえず、いつも役所側の作成した答申書に賛同させられるという情けない結果であった。教師の責任逃れなどが起こらないように道徳人倫的な精神を鍛え、それによって学校で起こる悪いことを素早く処理できる能力を培うべきである。願わくば政治家の方々が政争などにかまっているより、足元で起こっているこうした問題をいち早く解決できるようにしてもらいたいものである。
 
                                  (せん げんしつ)