ねずさんのひとりごと より。
キンセンカ
本日は悠仁親王殿下のお誕生日です。
誕生花はキンセンカ、花言葉は愛国心です。
心からお祝いを申上げたいと思います。
さて、ここから今日のお題です。
先日「日韓併合の真実と李承晩ライン」のことを書いたので、それに関連して、もうひとつ。
というか、あの記事で書ききれなかった部分を、すこし書いておこうと思います。
それは何かと言うと、B29のことです。
B29といえば20世紀最強の空の暴君と評された完全武装の超大型戦略爆撃機です。
英語名は「Super fortress」で、これは直訳したら「超空の要塞」です。
B29
開発したのはボーイング社です。
つまり、B29は、今風にいえば「ボーイング29」で、最近就航して話題になった「ボイーング787」の70年前の大先輩です。
(ただし、B29の「B」は、「Bommer(爆撃機)」を表す記号です)
実際、B29はたいへんな飛行機で、エンジンはターボ搭載の2,200馬力の巨大プロペラを4基も搭載。
実用上昇高度1万メートル(9,720m)、前後上下左右に12.7mmの機関銃を12門も搭載していて、さらに20mmの巨大機銃が一門。
ですから戦闘機でB29に挑んでも、全方位、死角がないのです。
どの方向から挑んでも、機銃ではたき落される。
さらに飛行高度が高いため(たとえば零戦の上昇高度は6,000メートル)、撃ち落とせない高高度で飛来し、超上空から、その巨体に積んだ爆弾や焼夷弾、ナパーム弾を地上にバラまくのです。
まさに、空の要塞そのものだった飛行機です。
そのB29は、大東亜戦争のさなかの昭和17(1942)年9月に就航し、昭和19年後半からは、本格的に実戦配備されました。
そして日本本土に飛来し、日本中の大都市を焼土にした。
昭和19(1944)年11月以降に行われた東京大空襲では、B29が東京上空にやってきた回数は、なんと106回、一回の空襲でやってくるB29は、100機から500機です。
日本は、特別に開発した高射砲や、果敢な特攻作戦でこれに挑むけれど、多勢に無勢であることに加え、高度の問題もある。
性能を常識で考えれば、当時の日本の戦力で、B29など落せるはずがないのだけれど、それでも日本軍は果敢に戦い、714機を撃墜し、1588機に損傷を与えています。
当時の日本の軍人というのは、実にすさまじいものであったと思います。
ちなみに、米軍は、日本本土に出撃するB29の乗組員達に対して、「万一日本国内に不時着した場合でも、日本の一般市民の捕虜に対する取り扱いは至極人道的なものなので抵抗しないように」と訓示していたというのは、有名な話です。
このことは、実に重要な事柄で、日頃「日本人は猿だ、獣だ、野蛮人だ」と戦意を煽っていた米国が、実は、現場においては日本人が戦いの場においても、また民間人ベースにおいてさえ、常に人道的行動をする民族であるということを、米軍の作戦本部は「ちゃんんと知っていた」ということだからです。
さて、その20世紀最強の暴君と呼ばれたB29ですが、そんなにすごい戦略爆撃機ならば、相当長期間運用されrのが普通ですよね?
たとえば、爆撃機ではないけれど、みなさんよくご存知のボーイング727なんて飛行機は、就航したのが昭和38(1963)年ですが、半世紀経った今でも、しっかりと現役飛行機として空を飛んでいます。
以外と、飛行機の現役就航期間というのは長いのです。
にもかかわらず、みなさんご存知の通り、B29は、ある日を境に、こつ然とこの世から消えてしまっています。
なぜでしょうか。
実は、その答えが朝鮮戦争にあります。
朝鮮戦争は、大東亜戦争の終戦から5年目である、昭和25(1950)年6月25日から、昭和28(1953)年7月27日の休戦までの約3年間朝鮮半島で繰り広げられた戦いです。
この戦いは、北朝鮮の金日成のソウル攻略戦に始まり、韓国軍の一方的敗退によって、米軍が参戦。多国籍軍(連合軍)を編成して、中共軍、ソ連軍、北朝鮮軍と対峙し、最後は米軍が韓国の頭越しに休戦協定を締結することで終わった戦闘です。
開戦の当初、北朝鮮軍は、まさに破竹の勢いで、米軍が緊急で派遣した一個師団さえまたたく間に粉砕し、ついには朝鮮半島南端の釜山まで、韓国および連合国軍を追いつめています。
なにせ北朝鮮軍は、ソ連製の最強戦車であるT型戦車を前面に押し立てていたのです。
この戦車は装甲が厚く、鉄砲や機関銃、果てはバズーカ砲にいたるまで、まるで歯がたちません。
まさに鉄鋼戦隊そのもので、戦いは一方的に北朝鮮有利にすすめられたのです。
これを逆転させたのが、釜山の戦いでT型戦車をことごとく打ち破った金錫源将軍でした。
彼は、日本の陸軍士官学校を卒業した軍人で、釜山においてはじめて旧日本兵だった朝鮮人部隊を編成すると、北朝鮮の戦車隊を海岸線におびき出し、そこを米艦隊によって砲撃させることで、北の戦車隊を壊滅させたのです。
バズーカ砲などでは歯がたたない地上の暴君T型戦車も、戦艦の巨大な主砲の前には、まるで紙でした。
この釜山の戦いで勝機をつかんだ韓国および連合軍は、いっきに戦線を取り返し、ついには朝鮮半島の北端に位置する平壌まで攻め上がります。
実は、このときに大活躍したのが、B29だったのです。
海岸線におびき出せば、さしものソ連製戦車も、艦砲射撃の前では塵にしかなりません。
しかし、内陸部に深く入り込まれたら、艦砲射撃はそこまで届かない。
つまり相変わらずソ連製戦車の独り舞台だったわけです。
これに対抗する方法として投下されたのが、B29で、B29は地上爆撃用の爆弾だけでなく、ナパーム弾を搭載し、空からT型戦車のいる一帯を、丸焼けにしたのです。
いくら戦車が強いといっても、鉄のかたまりです。
紅蓮の炎の前には、なかにいる人間が、戦車のなかで焼き鳥になってしまう。
こうして米国が投入したB29によって、一説によればナパーム弾を含む60万トンもの爆弾が北朝鮮に投下されています。
大東亜戦争で米軍が日本に投下した爆弾が、全部で16万トンですから、それがいかにすさまじいものであったかわかります。
この米軍の空からの攻撃で、北朝鮮ではおよそ230万人の民間人が死傷しています。
その爆撃の凄さがわかろうというものです。
こうした米軍の爆撃に、慌てたのが北朝鮮の金日成です。
彼は、なんとかしてくれ、とソ連のスターリンに泣きついた。
そこでスターリンが、B29対策に導入したのが、ソ連製のジェット戦闘機「ミグ15」です。
ミグ15
この戦闘機(ミグ15)は、最大速度が時速1,076km/hです。
つまり、B29のおよそ二倍の速力があります。
そして実用上昇高度は1万5千メートルです。
B29よりも5千メートルも高いところを飛びます。
しかも武装は、強力な37mm機関砲です。
要するにB29よりも、1.5倍も高高度を飛ぶことができ、B29の倍の速度で飛行し、さらに強力な砲門を備えていたわけです。
ソ連から持ち込まれたミグ戦闘機の前に、世界最強の空の暴君とされたB29は、一瞬にして空に浮かぶ巨大なでくの坊になりました。
図体がでかいから、マトがでかい。
しかも動作が遅く、ミグからみたら超低空しか飛べない。
このミグ戦闘機によって、集団で飛来するB29の爆撃隊は、ただの紙になりました。
あまりにも次々と簡単に撃墜される。
超上空から攻撃してくるミグの砲火から逃れようと、B29が飛行高度を落とせば、地上からは高射砲の餌食です。
この様子を見ていた金日成は狂喜します。
あの「空から降って来る恐怖の大魔王」が、まるで紙くずのように撃ち落とされるのです。
気持ちはおおいにわかる気がします。
あまりにミグがつよいことから、金日成は、ソ連に頼み込んで、ミグ戦闘機を大量に北朝鮮に仕入れます。
そしてこんどは自分たちの手で、米空軍をやっつけようとしました。
B29をたたき落とすだけでなく、今度は奪われた朝鮮半島の制空権を自分たちのものに取り返そうとしたのです。
一方米国は、B29があまりに簡単に撃墜されることから、ついに昭和26年には、B29を第一線から完全に退かせます。
そして制空権を取り返すために、同じくジェット戦闘機であるF-86Aセイバーを朝鮮半島に差し向けます。
F-86Aセイバー
こうして世界ではじめて、ジェット戦闘機同士のドッグファイトが行われたのが、朝鮮半島の上空でした。
この戦績は、4対1で米軍のジェット戦闘機の圧勝だったとされています。
こう書くと、なんだか米国製セイバーの方が圧倒的に性能が優れているように見えますが、実はそうでもありません。
ジェット戦闘機としての実力は、米ソとも、さほど違いがない。
違いがあったのは、パイロットです。
ソ連軍のパイロットがミグを操っているときには、ミグの被害はほぼゼロだったのですが、米軍がセイバーを投下する昭和27年頃になると、北朝鮮兵士が操縦するミグが、朝鮮半島の空を飛ぶようになっていたのです。
きわめて簡単な理屈ですが、ジェット戦闘機は地上からの弾の届かない超高空を飛ぶから、墜とされないのです。
ところが何を血迷ったか、北朝鮮兵の乗るミグは、米軍のセイバーが現れると、低空に逃れようとする。
低空に来れば、これまたあたりまえのことですが、地上からの高射砲の餌食になります。
こうして、戦闘機はジェットの時代を迎えました。
ちなみにジェットエンジンというのは、ものすごく簡単にいうと、プロペラ式エンジンの発達したものです。
プロペラ式エンジンは、羽根(プロペラ)を回して、前方にある空気を後方に送り出すことで推進力を得ます。
この「プロペラの回転によって後方に送り出される空気」を、狭い穴から思い切り吹き出させたら。。
これがすなわちジェット気流で、その狭い穴から吹き出す空気の力で、推進力を得ようというのが、要するにジェットエンジンです。
ジェットエンジンは、プロペラ機よりも強力な推進力を得ることができますから、当然、これを搭載した飛行機の機体も、より頑丈になものにしなければなりませんし、スピードが早くなった分、機体や翼の形状も変化させなければなりません。
こうして開発され、実戦配備されたジェット戦闘機が、上にご紹介したミグや、セイバーなのですが、このミグが初飛行したのが、昭和22(1947)年12月30日、セイバーが初飛行したのが、同じく昭和22年10月1日のことでした。
ところが日本では、これに先駆けること二年も前の昭和20(1945)年8月7日、ジェット戦闘機が大空を舞っています。
昭和20年8月7日といえば、その7日後が終戦の日です。
つまり、終戦の直前に、ジェット戦闘機が日本の空を舞っているのです。
飛行機の名前は、「橘花(きっか)」といいます。
エンジンを開発したのは石川島重工業で、機体を開発したのは中島飛行機(いまの富士重工)です。
橘花(きっか)
この「橘花」は、ドイツのメッサーシュミットMe262を参考に作られたジェット機で、8月7日の試験飛行と同時並行で10機が生産体制にはいっていて、さらに続々と量産される予定となっていました。
搭乗員としては、予科練甲飛14期生100名と16期生の200名がすでに事前訓練にはいっています。
もっともこう書くと「そんなこと言ったって、すでに当時の日本には、飛行機を飛ばすための燃料がなかったではないか」という声も聞こえてきそうです。
これも実は対策が進められていて、なんと赤松や黒松などの松の木から採取する「松根油」を用いた燃料が当時の日本で開発されていました。
松根油については、戦後に書かれた資料などをみると、なにやら必死で「役に立たないシロモノだった」と否定ばかりしているのですが、これも実は硫化モリブデンを触媒としてオクタン価を高める技術が当時すでに開発されていて、実際に松の木から採れる油で飛行機を飛ばせる状況になっていたのです。
ということは、朝鮮戦争であっという間にB29が引退した事実を考えると、もしあと半年大東亜戦争が長引いていたら、あの日本の空襲に猛威を振るったB29も、空に浮かぶただの紙風船になっていたかもしれません。
それにしても日本って、なんだかとてつもない国ですね。