【再び、拉致を追う】第1部 32年前のスクープ黙殺
北朝鮮による拉致が「疑惑」ではなく、「事件」と証明されたのは、10年前の日朝首脳会談でだった。産経新聞はその22年前に、拉致事件をすでに報じていた。
昭和55年1月7日付の1面トップにこんな記事が載った。《アベック3組ナゾの蒸発 福井、新潟、鹿児島の海岸で 外国情報機関が関与?》。53年に拉致された地村保志さん(57)、富貴恵さん(57)夫妻、蓮池薫さん(54)、祐木子さん(56)夫妻、市川修一さん=拉致当時(23)、増元るみ子さん=同(24)=の失踪を初めて取り上げた記事だった。
記事を書いたのは、産経新聞元編集局長で当時社会部記者だった阿部雅美氏(64)。
「日本海のほうで妙なことが起きている」。捜査関係者の一言から取材を始めた。図書館で各地の地方紙を調べていたところ、53年8月15日に富山県で起きたアベック誘拐未遂事件が目にとまった。現場にあった手錠、猿ぐつわ、布袋…。遺留品はいずれも日本製ではなかった。こうしたものを用意し、犯行に及んでいた点が気になった。「既遂もある」と直感した。
沿岸部の警察署に足を運び、アベックが失踪した事件を探し、家族を訪ね歩いた。「家出では?」「心中では?」。疑問を一つ一つつぶしていった。
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記事には「北朝鮮」という表記はない。それでも北朝鮮の犯行を強く示唆していた。犯行グループの動機を、当時から戸籍を入手し工作活動に利用するためと推察していたのだ。
アベック失踪事件が起きる前年の52年9月、東京都三鷹市の警備員、久米裕(ゆたか)さん=同(52)=が石川県の宇出津(うしつ)海岸から連れ去られる事件が起きていた。
その直後、協力した在日朝鮮人の男が逮捕され、警察当局は男の自宅から暗号を解読する乱数表を押収した。男は北朝鮮側から指示を受けていたことや、久米さんが戸籍謄本を持って行ったことを供述。警察当局は日本人になりすまし、工作活動を行う「背(はい)乗(の)り」が目的と判断していた。
アベック3組の報道は他紙から“黙殺”されたが、阿部氏はその後も、失踪者らの戸籍に変化がないかを定期的に取材し続けた。
1987(昭和62)年の大韓航空機爆破事件で、「蜂谷真由美」を名乗った実行犯の金(キム)賢姫(ヒョンヒ)元工作員(50)に「李(リ)恩恵(ウネ)」という日本人女性の教育係がいたことが韓国当局の調べで判明する。後に拉致被害者、田口八重子さん=同(22)=と分かるが、阿部氏は当時から「『北』は生身の若い日本人が欲しかったのだと思う。工作員を『若い日本人』そのものに作り上げなければならないのだ」と指摘していた。
拉致の目的は(1)「背乗り」(2)工作員の教官(3)結婚目的-に大別されるが、阿部氏はすでに拉致事件の実態に迫っていた。
平成9年2月には拉致被害者、横田めぐみさん=同(13)=失踪事件を報道。13歳の少女が北朝鮮に拉致された疑いを報じた記事は大きな反響を呼び、昭和55年の記事と合わせ、新聞協会賞を受賞した。
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「日朝首脳会談で北朝鮮が認めたことで、初めて日本社会が拉致事件の存在を認識したのだと思う」。阿部氏はそう振り返る。
その一方で、「今の若い人は拉致事件のことを知らないだろうし、このまま状況に変化がないと、『拉致事件は終わりなんだ』という空気が広がる。日本社会の拉致事件に対する熱気は薄れているように感じている」とも指摘した。
金正日総書記が認めてもなお、被害者が帰国できない状態が続く。未解明の部分も多く残されている。阿部氏は今になっても不可解な点に言及した。
「そもそも、なぜ北朝鮮は拉致を認めたのかな…」=第1部おわり
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第1部は森本昌彦、松岡朋枝が担当しました。