ねずさんのひとりごと より。
インパール作戦のインド国民軍兵
以下の記事は、2009年12月にいちど掲載させていただいた記事に、一部修正を加えて再掲するものです。
とても心に沁みるお話だとおもいます。
【勇敢で高潔で、誰からも好かれた日本軍人】
大東亜戦争の頃、Mさんというインド人の若者がいました。
Mさんはインド国民軍に参加し、日本軍の新藤(仮名)という軍人の下で訓練を受けたそうです。
新藤さんは、日本人にしては色が黒く目鼻立ちが濃かったせいで、日本兵の間で「インド人に似ているから、お前のあだ名はインドさんだ!」とおもしろがって呼ばれていました。
またMさんたちも、あだ名と、名前の発音がインドの古称である「シンド」と似ているため、「シンドさん、シンドさん」と親しみを込めて呼ばれていました。
新藤さんの訓練は、とっても厳しいものでした。
Mさんたちインドの兵士を怒鳴りつけたり鉄拳制裁を加えたりするのも日常茶飯事でした。
でも訓練が終わると新藤さんは、日本の歌やインドの歌を一緒に歌ったり、言葉を教えあったり、時には特別配給されたお菓子を分けてくれたりと、日本人、インド人を問わず、兵士たちの誰からも尊敬され、愛される上官でした。
いよいよ訓練が終わり、インパールの戦いに赴くことになりました。
その時Mさんたちは新藤さんの部下として、作戦に参加することになりました。
激戦の中、新藤さんの部隊は、強力な英国軍の陣地を攻めるため、本隊から大きく迂回してジャングルの中を進んで英国軍の背後を突くように、という命令を与えられました。
しかし、攻撃前に発見され、ほぼ全滅するほどの被害を受けてしまいました。
気づけば、Mさんの周囲で生き残ったのは、同世代の若いインド兵がわずか5名だけでした。
みんな恐怖で逃げ散って、かろうじて生き残った者ばかりです。
英国軍に見つかれば殺されると怯えるMさんたちの元に、片腕を失った新藤さんが合流しました。
そして「作戦は失敗した、本隊と合流しよう」と告げました。
ですが、武器も食糧も水もろくにありません。
合流しようとする本隊さえ、どこにいるかわかりません。
あたりには、敵兵がうようよいます。
なので、移動は夜中しかできません。
そんな中でも、重傷の新藤さんは、怯えるMさんたちを 励ましてくれました。
そしてみんな、杖代わりの小銃にすがって山中をさまよいました。
数日後、食糧も水も尽き、新藤さんの病状も悪化し、いよいよもうダメだとMさんたちが覚悟した時、最悪なことに10人ほどの英国軍の小部隊が近づいてきました。
新藤さんは、Mさんたちに告げました。
「私は、この怪我ではまもなく死ぬ。だが諸君はなんとしても生き延びて、インドの独立のために戦いなさい」
新藤さんは、うなずくMさんたちを地面に伏せさせ、その上に土や落ち葉をかぶせました。
そして「ガンバレ!」と叫ぶと、弾の尽きた小銃だけを手に、英国軍に向かって駆け出しました。
何歩も行かないうちに、英国軍の機関銃に頭を撃たれました。
鉄兜をはね飛ばされ、その場に倒れました。
それでも、新藤さんは跳ね起きると、小銃を構えて英国兵に襲いかかり、銃剣で3人を刺し殺しました。
そしてなおも片手で血まみれの銃を振り回す新藤さんに恐れをなした英国兵は、武器や荷物を放り出し、悲鳴を上げて逃げ去っていきました。
英国兵が逃げ去って始めて、新藤さんはその場にばったりと倒れました。
敵兵が去った後、新藤さんに駆け寄ったMさんたちが見たのは、最初の機関銃の弾で頭を撃ち抜かれたために、頭が半分無くなってしまった新藤さんの変わり果てた姿でした。
Mさんたちは、新藤さんの遺体を囲んで泣きました。
日本人がこんなに勇敢に戦ったのに、私たちは怯えて見ているだけだった。情けない。
これからは勇敢に戦い、新藤さんが願ったように、生き延びて、インドのために命がけで働こう、と誓いあいました。
そして新藤さんの遺品である銃やお守りを手に、英国軍の残していった武器や食料をみんなで分け合い、その場を離れました。
新藤さんの死から、10日以上も山中をさまよいました。
一行は小さな集落にたどり着き、その住民に助けてもらって、ようやく日本軍(当初属していた本隊ではない部隊)と合流できました。
形見のお守りは合流した日本軍の士官に渡したそうですから、おそらく遺族の元に戻ったことでしょう。
そうそう、士官が確認のために開けた時、中には小さな木の板と、折りたたんだ写真。。。新藤氏が奥さんの隣で、小さな女の子を抱いて微笑んでいる写真。。。が入っていたそうです。
小さなお子さんのためにも、なんとしても日本に帰りたかっただろうに、命がけで自分たちを守ってくれた新藤さんの勇気に、Mさんたちは再び声を上げて泣いたそうです。
そして、終戦。
最後までMさんたちの面倒を見てくれた日本軍の士官は「私たちと一緒にいると、君たちは英国軍に捕まってしまうから、身分を隠して故郷に帰りなさい」といって、わずかながらお金や食料、衣服などを分け与えてくれました。
そして「インド独立の約束を果たせなくてすまない」と涙を流して頭を下げたそうです。
戦争の後、故郷に帰ったMさんたちは協力し合って、新藤さんの最後の言葉「ガンバレ!」を合い言葉に、インドの独立と発展のために必死で働きました。
Mさんは軍人として大成し、仲間たちもお互いに力を合わせて、政治家や実業家、学者として同様に成功を修めていきました。
~~~~~~~
勇敢で、高潔で、誰からも好かれた日本人。
その日本人は今どこかにいるのでしょうか。
でもほんの60年前。私の両親や祖父母の時代に、この国には確かにそんな立派な人間がいたという事実は、私にとって小さな誇りと、負けないように自分も頑張らないと、という目標を与えてくれるような気がします。
今回の話は、もともとが古い時代の聞き語りです。
話した本人も、聞き覚えた人々も幼い頃の記憶に 頼っていますし、歴史や軍事に詳しい訳でもありません。
また、この話をまとめた私自身も大東亜戦争に関する知識に乏しいので、戦史に詳しい方から見れば首をかしげるような部分もあるかも知れません。
その点をご理解頂ければ幸いです。
そうそう、この話にはちょっとオカルトチック(?)な余談があります。
新藤さんが死んで、Mさんたちが山中をさまよっていたときのこと。
疲労で見張りを立てる余裕もなく眠ってしまった5人全員の夢の中に、新藤さんが出てきて「敵襲!」と叫んだのだそうです。
そして、はっとして目覚め、跳ね起きて藪の中に身を潜めたMさんたちのすぐ近くを、英国兵の偵察部隊が通り過ぎていったそうです。
その後も何度か、Mさんたちの夢に新藤さんが現れて、敵が近くにいることを教えてくれたそうです。
Mさんたちは、死んで霊になった新藤さんが自分たちを守ってくれていると信じ、夢の警告に従って、ひとりの死者を出すことなく生き延びることができたのだそうです。
戦後の独立運動の間も、その後の軍務の中でも、新藤さんは何度もMさんたちの夢に現れては、様々な危険を教えてくれたそうです。
霊のお告げ、ってのは「Mさんたちの、疲労状態でも極限まで緊張しきった神経が、敵兵の近づくのに気づき、無意識のうちに便りにしていた新藤氏の姿を借りて警告を発した」合理的に考えることも出来ますが、やっぱり、これだけは、死者の魂が最後まで守っていてくれた、という説明の方がしっくりするような気がします。
さて、以上、インド人の知り合いから聞いた、昔々の英雄譚でございました。
またMさんたちも、あだ名と、名前の発音がインドの古称である「シンド」と似ているため、「シンドさん、シンドさん」と親しみを込めて呼ばれていました。
新藤さんの訓練は、とっても厳しいものでした。
Mさんたちインドの兵士を怒鳴りつけたり鉄拳制裁を加えたりするのも日常茶飯事でした。
でも訓練が終わると新藤さんは、日本の歌やインドの歌を一緒に歌ったり、言葉を教えあったり、時には特別配給されたお菓子を分けてくれたりと、日本人、インド人を問わず、兵士たちの誰からも尊敬され、愛される上官でした。
いよいよ訓練が終わり、インパールの戦いに赴くことになりました。
その時Mさんたちは新藤さんの部下として、作戦に参加することになりました。
激戦の中、新藤さんの部隊は、強力な英国軍の陣地を攻めるため、本隊から大きく迂回してジャングルの中を進んで英国軍の背後を突くように、という命令を与えられました。
しかし、攻撃前に発見され、ほぼ全滅するほどの被害を受けてしまいました。
気づけば、Mさんの周囲で生き残ったのは、同世代の若いインド兵がわずか5名だけでした。
みんな恐怖で逃げ散って、かろうじて生き残った者ばかりです。
英国軍に見つかれば殺されると怯えるMさんたちの元に、片腕を失った新藤さんが合流しました。
そして「作戦は失敗した、本隊と合流しよう」と告げました。
ですが、武器も食糧も水もろくにありません。
合流しようとする本隊さえ、どこにいるかわかりません。
あたりには、敵兵がうようよいます。
なので、移動は夜中しかできません。
そんな中でも、重傷の新藤さんは、怯えるMさんたちを 励ましてくれました。
そしてみんな、杖代わりの小銃にすがって山中をさまよいました。
数日後、食糧も水も尽き、新藤さんの病状も悪化し、いよいよもうダメだとMさんたちが覚悟した時、最悪なことに10人ほどの英国軍の小部隊が近づいてきました。
新藤さんは、Mさんたちに告げました。
「私は、この怪我ではまもなく死ぬ。だが諸君はなんとしても生き延びて、インドの独立のために戦いなさい」
新藤さんは、うなずくMさんたちを地面に伏せさせ、その上に土や落ち葉をかぶせました。
そして「ガンバレ!」と叫ぶと、弾の尽きた小銃だけを手に、英国軍に向かって駆け出しました。
何歩も行かないうちに、英国軍の機関銃に頭を撃たれました。
鉄兜をはね飛ばされ、その場に倒れました。
それでも、新藤さんは跳ね起きると、小銃を構えて英国兵に襲いかかり、銃剣で3人を刺し殺しました。
そしてなおも片手で血まみれの銃を振り回す新藤さんに恐れをなした英国兵は、武器や荷物を放り出し、悲鳴を上げて逃げ去っていきました。
英国兵が逃げ去って始めて、新藤さんはその場にばったりと倒れました。
敵兵が去った後、新藤さんに駆け寄ったMさんたちが見たのは、最初の機関銃の弾で頭を撃ち抜かれたために、頭が半分無くなってしまった新藤さんの変わり果てた姿でした。
Mさんたちは、新藤さんの遺体を囲んで泣きました。
日本人がこんなに勇敢に戦ったのに、私たちは怯えて見ているだけだった。情けない。
これからは勇敢に戦い、新藤さんが願ったように、生き延びて、インドのために命がけで働こう、と誓いあいました。
そして新藤さんの遺品である銃やお守りを手に、英国軍の残していった武器や食料をみんなで分け合い、その場を離れました。
新藤さんの死から、10日以上も山中をさまよいました。
一行は小さな集落にたどり着き、その住民に助けてもらって、ようやく日本軍(当初属していた本隊ではない部隊)と合流できました。
形見のお守りは合流した日本軍の士官に渡したそうですから、おそらく遺族の元に戻ったことでしょう。
そうそう、士官が確認のために開けた時、中には小さな木の板と、折りたたんだ写真。。。新藤氏が奥さんの隣で、小さな女の子を抱いて微笑んでいる写真。。。が入っていたそうです。
小さなお子さんのためにも、なんとしても日本に帰りたかっただろうに、命がけで自分たちを守ってくれた新藤さんの勇気に、Mさんたちは再び声を上げて泣いたそうです。
そして、終戦。
最後までMさんたちの面倒を見てくれた日本軍の士官は「私たちと一緒にいると、君たちは英国軍に捕まってしまうから、身分を隠して故郷に帰りなさい」といって、わずかながらお金や食料、衣服などを分け与えてくれました。
そして「インド独立の約束を果たせなくてすまない」と涙を流して頭を下げたそうです。
戦争の後、故郷に帰ったMさんたちは協力し合って、新藤さんの最後の言葉「ガンバレ!」を合い言葉に、インドの独立と発展のために必死で働きました。
Mさんは軍人として大成し、仲間たちもお互いに力を合わせて、政治家や実業家、学者として同様に成功を修めていきました。
~~~~~~~
勇敢で、高潔で、誰からも好かれた日本人。
その日本人は今どこかにいるのでしょうか。
でもほんの60年前。私の両親や祖父母の時代に、この国には確かにそんな立派な人間がいたという事実は、私にとって小さな誇りと、負けないように自分も頑張らないと、という目標を与えてくれるような気がします。
今回の話は、もともとが古い時代の聞き語りです。
話した本人も、聞き覚えた人々も幼い頃の記憶に 頼っていますし、歴史や軍事に詳しい訳でもありません。
また、この話をまとめた私自身も大東亜戦争に関する知識に乏しいので、戦史に詳しい方から見れば首をかしげるような部分もあるかも知れません。
その点をご理解頂ければ幸いです。
そうそう、この話にはちょっとオカルトチック(?)な余談があります。
新藤さんが死んで、Mさんたちが山中をさまよっていたときのこと。
疲労で見張りを立てる余裕もなく眠ってしまった5人全員の夢の中に、新藤さんが出てきて「敵襲!」と叫んだのだそうです。
そして、はっとして目覚め、跳ね起きて藪の中に身を潜めたMさんたちのすぐ近くを、英国兵の偵察部隊が通り過ぎていったそうです。
その後も何度か、Mさんたちの夢に新藤さんが現れて、敵が近くにいることを教えてくれたそうです。
Mさんたちは、死んで霊になった新藤さんが自分たちを守ってくれていると信じ、夢の警告に従って、ひとりの死者を出すことなく生き延びることができたのだそうです。
戦後の独立運動の間も、その後の軍務の中でも、新藤さんは何度もMさんたちの夢に現れては、様々な危険を教えてくれたそうです。
霊のお告げ、ってのは「Mさんたちの、疲労状態でも極限まで緊張しきった神経が、敵兵の近づくのに気づき、無意識のうちに便りにしていた新藤氏の姿を借りて警告を発した」合理的に考えることも出来ますが、やっぱり、これだけは、死者の魂が最後まで守っていてくれた、という説明の方がしっくりするような気がします。
さて、以上、インド人の知り合いから聞いた、昔々の英雄譚でございました。