coffee様のブログ・正しい歴史認識・国益重視の外交、核武装の実現 より。

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韓国で学ぶ世界史がすごい! 「世界四大文明」に“コリアン文明”を勝手に追加したよ
2012.08.29、ゴールドラッシュ
閉鎖的だと言われている韓国の教育には方法は度々日本のネットで話題になる。例えば小学校で教える反日教育や偏向した歴史など……。
今回紹介するのは韓国で学べる「世界五大文明」というものである。と、ここで「おや?」と思った人もいるだろう。そう、実際は「世界四大文明(または四大河文明)」なのである。何故1つ増えているのか。では順を追って文明を紹介したい。
世界四大文明はメソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明・黄河文明(中国文明)の4つを指す。学校でそれぞれ習ったのでみんなもご存じだろう。しかし韓国ではこれにさらにもう1つ加わり“コリアン文明”という文明が追加される。
私自身は“コリアン文明”は聞いたこと無い。そもそも世界的に考古学の記録に無い文明を韓国では“コリアン文明”と名付け学ばせているのだ。
韓国が出来る前は三韓、新羅・百済、新羅、高羅、朝鮮(李朝)、そして日本に統治されその後に大韓民国となった。コリアンという呼び名にそんなに歴史が無いことから後付けっぽさ満載である。それだけではなく、その教材には北海道は日本の土地ではなく韓国の土地だったと書かれており、更に韓国はアジアのほとんどを占めていたとも書かれている。もちろん学校で教えられた生徒や学生は、それを当たり前のように受け止め信じてしまうだろう。「学校が嘘を教えるはずがない」と思うのが普通である。
こういう発想がやはり他人のパクリに繋がるのではないだろうかう。古くは『マジンガーZ』のパクリの『テコンV』や『ポケットモンスター』のパクリの『PowerMon』、そして家電製品やお菓子など。
このように韓国では洗脳するかのように「自国は強い」と教育を通じて教え込んでいるのだ。韓国は2年間の徴兵制度があるので、若い内から国民を堕落させてはいけないという考えなようだ。北の某国に通じるものがある……。
日本よりも受験戦争が激しいと言われている韓国だが、教えている内容がこれでは全く意味が無いようなきがするが。

韓国の本質!!歴史のテストと韓国人!!(masaの海外漂流日記)
>韓国で学ぶ世界史がすごい! 「世界四大文明」に“コリアン文明”を勝手に追加したよ
韓国の歴史の教科書は「コリアン文明」を含む世界五大文明と教え、その後の歴史でも支那より広大な朝鮮人の国があったことになっている。
地図の中で日本はずっと属国のように描かれている。

「世界五大文明」があって、そのうち一つが「コリアン文明」などというのは、言うまでもなく勿論大嘘だ。
朝鮮半島が日本列島よりも先進地域だったことは一度たりともなく、韓国が思想と文物を日本に伝えたなどいうことは有り得ない。
古来より先進的な文化や技術は、日本から朝鮮半島に伝わった。
●勾玉
勾玉とは縄文時代極初期より伝わる日本固有の装身具で、朝鮮半島へも伝播した。
韓国で多量の縄文系遺物が出土する「東三洞貝塚」からは縄文前期のものと同様のケツ状耳飾が出土している。
現在朝鮮半島で見つかっている勾玉の大部分が日本からの交易品であり、新羅の王冠にも勾玉が使用されているのも注目したい。
勾玉の材料となる翡翠自体東アジアでは日本の糸魚川でしか産出されず、その美しい翡翠で作った勾玉は支那や朝鮮半島の権力者達を魅了してきた。
縄文時代中期の長者ヶ原遺跡からは、ヒスイの大珠や勾玉、加工道具、工房跡などが続々と出土され、6000年前の世界最古の勾玉文化が実証された。

勾玉
●土器
土器は、日本最古の土器(1万6500年前)がほぼ世界最古の土器と考えられている。

大平山元1遺跡(青森県外ヶ浜町)の日本最古(世界最古の可能性も)の土器
●鉄器
鉄器も、日本から朝鮮半島に伝わった。
日本最古の鉄器は、福岡県糸島郡二丈町の石崎・曲り田遺跡の住居跡から出土した紀元前3~4世紀の板状鉄斧(鍛造品)の頭部とされている。
後漢書・東夷伝によると、辰韓について『倭、馬韓並從市之。凡諸貿易、皆以鐵爲貨』という記述が見られる。
倭人は、朝鮮半島南部が三韓に分立していた時代から、朝鮮半島に行っており、鉄を貨幣のように用いて交易していた。
韓国で2世紀頃の製鉄遺跡が発見されたが、この地域の墓からは弥生時代の倭国製の土器のみが発掘された。

福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧
●水田稲作技術
水田稲作技術は、朝鮮半島から日本列島に伝播したのではなく、日本列島から朝鮮半島に伝播したことが確定している。
水田稲作技術が日本から朝鮮半島に伝播したとする理由は主に2つ。1つは遺伝子工学の研究の成果で、もう1つは支那政府機関が20年以上かけて行った品種の調査だ。この2つが決定打になり朝鮮半島経由で日本に米が伝来した可能性がなくなった。
まず、近年、炭素14年代測定法によって、日本の稲作の方が朝鮮半島よりかなり古いことが判った。日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明した。
これに対し朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない。
次に、米には品種特性を決定づける遺伝子が7種類ある。
稲作の発祥地とされる支那では、NO.1からNO.7まですべて揃っている。
日本の場合、古代から現代に至るまで日本で発見された遺伝子は温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの特有遺伝子2種類しかなく、それぞれNO.1とNO.2としよう。
朝鮮半島の米はNO.2からNO.7までの6種類が揃っているが、NO.1だけは存在しない。これは気温が低いと存在できない遺伝子のため支那北部より北では存在できないためだ。
この辺の事情は「栽培稲に関する種生態学的研究」(松尾孝嶺著)に詳述されている。
往来が盛んになればなるほど、多くの種類の遺伝子の米が入る確率が高まるが、日本には2種類しかなく、これが稲作開始の初期から広く分布したため、米の伝来はごく限られた地域から限られた回数しか伝来していないと考えられる。
日本の米の起源と推定される支那南部の地域は熱帯ジャポニカも温帯ジャポニカも同時に存在しているので、両者を1品種ずつ持ってきたと考えられる。
往来回数が多くなると別遺伝子品種が紛れ込む可能性が高くなるので、古代人が遺伝子選別技術を持っていない限りはこの地域だけから流入したと考えるしかない。
一方、朝鮮半島の米はNO.2からNO.7までの6種類が揃っているが、NO.2の遺伝子が70%を占めるので、米が朝鮮半島に導入された初期段階でNO.2の遺伝子が多く伝わっていなければならない。
日本から2種類の米が朝鮮半島に伝播したものの、NO.1の温帯ジャポニカ種は朝鮮半島に根付かずNO.2の遺伝子のみが広まり、そこに支那大陸から米が入ってきて、NO.2の遺伝子を持つ米と交雑したと考えると朝鮮半島の米の遺伝子の説明が付く。
支那大陸にはすべての遺伝子が満遍なくあるので、特定の種類の遺伝子だけを多く朝鮮半島に伝えるのは無理だ。
また、朝鮮半島の水稲栽培は、九州北部と栽培法が酷似していることや、遺伝子学的に日本の古代米に支那大陸から入った米が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。支那政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論だ。

支那大陸から日本へ稲作が直接伝来した裏付けとなる「RM1-b 遺伝子の分布と伝播」。日本の各所に点在するRM1-b遺伝子。
支那大陸では多くの品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島ではRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。
●詳細な関連記事
日本から朝鮮半島への米の伝播について
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/12585608.html
以上が紀元前から日本列島にあった文物や技術などが、その後朝鮮半島へ伝播した主な事例だ。
紀元後になっても、先進的な文化や文物は、常に日本列島から朝鮮半島へと伝播した。
というか、古代においては7世紀まで、朝鮮半島は日本の支配地だったのだから当然だ。
『百済本紀』
397 倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする
399 高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる
402 倭国に使者を送り大珠を求む(大珠の意不明)
403 倭国の使者を特に手厚くねぎらう
405 腆支王即位テンシ(直支、映、枕流王の子)人質となっていたとき枕流王が死去、弟を殺した末弟が王となったために乞うて倭国の護衛により海中の島にて待機してのち王となる
406 晋に朝貢
409 倭国の使者が夜明珠を送る 厚く礼遇する(夜明珠の意不明)
政治的に大和朝廷(倭国)の勢力圏におかれていた朝鮮半島は、文化的にも日本の強い影響を受けた。
新羅・百済はみな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びに之を敬仰し、恒に使ひを通はして往来せしむ。
(新羅、百濟、皆以倭爲大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。)
『隋書 列傳第四十六 東夷 倭國』
●前方後円墳
日本の前方後円墳が3~5世紀に作られたのに対し韓国の前方後円墳は5~6世紀に作られた。
さらに韓国の前方後円墳の出土物に日本の埴輪に酷似した土器類が発見された。

画像は「仁徳天皇陵」(全長486m)
5世紀
仁徳天皇陵は、三段で構成された墳丘と三重の濠が巡らされている日本最大の前方後円墳で、エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並び、世界三大古墳の一つといわれている。
その遺物は長持形石棺から、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿、葺石や埴輪などがあり、埴輪には人物(女子頭部)や水鳥、馬形、家形などが出土している。東側の造出しから須恵器の甕が出土した。
ボストン美術館には本古墳出土と伝えられる細線式獣帯鏡や単鳳環頭太刀などが所蔵されている。
全長約486m、後円部径約249m、高さ約35m、前方部幅約305m、高さ約33m
Spec Sheet 全長(Length) 全幅(Width) 全高(Height)
仁徳天皇陵 486m 300m 35m
ギザのピラミッド 229m 229m 147m
秦の始皇帝陵 245m 340m 53m

画像は「月桂洞古墳」(全長46.5m)
5世紀後半から6世紀中葉に作られた韓国の代表的な前方後円墳
日本と韓国の前夫後円墳に関する分かり易いサイトの魚拓
http://megalodon.jp/2008-1025-1447-29/bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=111940&tab=five
「韓国の前方後円墳は倭人の墳墓」 韓国内で前方後円墳が出たら埋め直すニダw
http://unkar.org/r/news/1195388595
4世紀頃(391年、倭が、海を越えて襲来し、百済や新羅を破って服属させてしまった「広開土王碑」)から7世紀(白村江の戦い)まで、朝鮮半島は九州などと同様に日本(倭国)の一部だった。
百済の「武寧王」も、その父の「東城王」も、朝鮮半島で生まれたのではなく、日本(九州)で生まれて日本から朝鮮半島に渡って行った人物だ。
ちなみに、日本から朝鮮半島に渡って行った「武寧王」の子「純陀太子」は、日本に人質として来て、その子孫はそのまま日本に住み着いた。
百済の文斤王がなくなり、天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、幼くとも聡明なので、内裏へ呼んだ。親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵五百人を遣わして国に送り届けた。これが東城王である。…
『日本書紀』雄略紀
(廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王、以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、并遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。…)
こうして479年、東城王(末多王)が百済王に即位したが、この即位も日本(天皇)によって決められたことが判る。
『日本書紀』武烈四年条(502年)には、この東城王(末多王)の暴虐が記され、武寧王即位が記されている。
「是歳、百済の末多王、無道して、百姓に暴虐す。国人、遂に除てて、嶋王を立つ。是を武寧王とす。」
こうして、百済王に「武寧王」が即位したのだが、「武寧王」も九州(佐賀県)生れの日本人(倭人)だった。
つまり、百済王は、天皇によって決められ、日本(九州など)生れの「東城王(末多王)」や「武寧王」などが日本(九州など)から朝鮮半島に渡って行って即位していたように、百済というのは昔から日本(倭国)の一地方だった。
ところが、朝鮮人や一部の日本人は、よく「百済時代に仏教を日本に伝えた」と主張することがある。
しかし、仏教は百済の文化でも朝鮮の文化でもなく、インドで生まれた文化であり、百済には支那(東晋)経由で伝わっていたに過ぎない。

日本へは6世紀に、百済の聖明王から欽明天皇に仏教が伝来したとされている。
しかし、6世紀の百済は日本(倭国)の勢力圏(属領)だったので、百済王は天皇の手下に過ぎなかったのだから、「百済時代は朝鮮が日本に文化を教えた」という言い方も正しくない。
実態を正確に表現すれば、「日本の支配下にあった百済の聖明王は、インド発祥で支那(東晋)経由で百済にも伝わっていた仏教について、欽明天皇にお伝え申し上げた(報告した)。」ということになる。
しかも、その後朝鮮半島では、新羅が支那(唐)に百済を滅ぼしてもらい、李氏朝鮮時代になると、仏教も滅ぼそうとして弾圧しまくった。

李氏朝鮮時代の仏教弾圧
1番目と2番目の写真は仏教弾圧によって荒れ果てた仏国寺と石窟庵
3番目と4番目の写真は仏教弾圧によって打ち首になった仏像
「百済時代は朝鮮が日本に仏教を伝えた」という主張は、史実(実態)から余りにもかけ離れている上に、今の韓国人が誇りとする李氏朝鮮の悪行を無視した恥知らずな表現だ。
663年、日本(倭国)は、「白村江の戦い」で、唐・新羅の連合軍に敗れ、朝鮮半島に有していた勢力圏を失った。
百済王族は日本列島に亡命し、それ以降は大和朝廷の単純な手下となった。
桓武天皇の在位期間(781~806年)、桓武天皇の命令を受けた百済王の子孫たちは、東北地方(陸奥)の征服を何度も試みたが、大惨敗を繰り返した。
その後、平安時代も、鎌倉時代も、室町時代も、江戸時代も、朝鮮の技術水準や文化水準が日本より高かったことは一度たりともない。
――――――
日本の技術を学んで帰った通信使
では、日本を訪れた通信使たちは、日本でなにを見、いかに感じて帰国していたのであろうか。室町時代前期の1429年、日本にきた朴端生は、次のように復命していた。それによると「日本の農人水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀めっき)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉等の製造法を報告している。この時の復命では、日本の貨幣経済の実態や店舗商業の発展等にも及んだが、その中で技術に言及していたのは、渡航前に世宗から「倭紙堅靱、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するよう命じられていたからである。
(略)
これに対して日本では、朴端生が日本を訪れる百年以上も前に、水車を利用して離宮に川の水を汲み上げた話が『徒然草』(第五十一段)に記されている。その水車が農民たちの手で取り付けられていたことを考えると、当時、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったことがわかる。したがって、韓国の歴史教科書にあるように「技術を学ぶのに苦労していた」のは、日本側ではなくむしろ朝鮮の方であったのである。そして、この現実は後世、実学者と呼ばれた人々が日本や清との技術的格差を深刻に捉え、その導入方法に苦慮していたことでも明らかなように、近世に入っても変わりがなかったのである。
『日韓・歴史克服への道』下條正男著
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ある朝鮮通信使の記録
第11次朝鮮通信使節(1763~1764)の一員だった金仁謙の日本紀行文「日東壮遊歌」(東洋文庫)より抜粋
1.大阪を見ての驚き
「三神山の金闕銀台とは まことこの地のことであろう。人家が塀や軒をつらね、その賑わいの程は我が国の錘絽(ソウルの繁華街)の万倍も上である。北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原(中国の中心部)の壮麗さもこの地には及ばない。」
2.名古屋を見ての驚き
「山川広闊にして、人口の多さ、田地の肥沃、家々の贅沢なつくり、遠路随一といえる。中原にも見あたらないであろう。朝鮮の三京も大層立派であるが、この地に比べれば寂しい限りである。」
3.江戸を見ての驚き
「楼閣屋敷の贅沢な造り、人々の賑わい、男女の華やかさ、城郭の整然たる様子、橋や船にいたるまで大阪、西京(京都)より三倍は勝って見える。」
4.京都を見ての妄想
「惜しんで余りあることは、この豊かな金城湯池が倭人の所有するところとなり、帝だ皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである。」
――――――
上述したとおり朝鮮は、663年の「白村江の戦い」で唐の力で日本の勢力圏から脱した時点から、1895年の日清戦争後の下関条約が締結されるまで、1200年以上に亘り歴代支那帝国(唐や元や明や清)の属藩だった。
証拠は笑える程たくさんある。

朝鮮が明の属国だった証拠!
「朝鮮」…「朝貢属国」
1602 日本海(Sea of Japan)
「坤輿萬國全図」、制作Matteo Ricci、北京。

朝鮮が清の属国だった証拠!
大清国属高麗国旗
(大清国に属する高麗の国旗)

「土下座碑」
ホンタイジに土下座する仁祖(銅版)

「迎恩門」
清皇帝から受けた恩に、感謝して迎えるために作った門
ここで朝鮮王は、9回頭を地面に叩きつけて、ひれ伏し、清の使者を迎えた。

「独立門」
日清戦争後に清から独立したために大韓帝国が建てた。
その前に「迎恩門」の石柱が残っている。
★下関条約で、【清國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス】という文言になった理由
1200年以上に亘り、朝鮮は支那の属藩・属領だった。
しかし、当時、日本は、朝鮮がこのまま沈みかけている清朝の属領のままでは日本にとっても危険だと考えたために清朝の支配から切り離そうとした。
だから、日朝修好条規で、日本は朝鮮の自主独立を承認し、清朝の宗主権を否認した。
―――――――
日朝修好条規
1876年(明治9年)に日本・李氏朝鮮間に締結された条約。
日本は条規中に、「朝鮮国は自主の邦にして日本と平等の権を保有せり」と表現し、李氏朝鮮を諸外国に先駆けて「独立国」として承認、清朝の宗主権を否認した。
―――――――
ところが、清朝はそんなことはお構いなしにいつまで経っても朝鮮を属領・属藩にし続けた。
日本がせっかく朝鮮を「独立国」として認めたのに、清と朝鮮の関係に変化はなかった。
1894年6月6日、清国公使、陸奥宗光外相に、朝鮮国王の要請に応じ属邦保護のため出兵する旨を通告
陸奥外相、朝鮮を清国の属邦とみとめずと抗議
朝鮮の内部にも、儒者などを中心に「小中華」を自負し、「独立なんてとんでもない、いつまでも小中華として支那の属領・属藩であり続けるべき」という連中が大勢いた。
だから、日清戦争後の下関条約では、「獨立自主ノ國タルコトヲ確認」という文言になったのだ。
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下関条約
1、清國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス
(清朝の朝鮮に対する「宗主権」放棄=朝鮮独立の承認)
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我が五千年の歴史はひと言でいって退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった。
いつの時代に辺境を超え他を支配したことがあり、どこに海外の文物を広く求めて民族社会の改革を試みたことがあり、統一天下の威勢でもって民族国家の威勢を誇示したことがあり、特有の産業と文化で独自の自主性を発揮したことがあっただろうか。
いつも強大国に押され、盲目的に外来文化に同化したり、原始的な産業のわくからただの一寸も出られなかった。
「われわれのもの」はハングルのほかにはっきりとしたものは何があるか。
我々はただ座してわらを編んでいただけではなかったか。
自らを弱者とみなし、他を強大国視する卑怯で事大的な思想、この宿弊、この悪い遺産を拒否し抜本せずには自主や発展は期待することは出来ないであろう。
以上のように我が民族史を考察してみると情けないというほかない。全体的に顧みるとただ唖然とするだけで真っ暗になるばかりである。
このあらゆる悪の倉庫のような我が歴史はむしろ燃やして然るべきである。
「朴正熙選集」-我々は今何をいかになすべきか-
朴正熙 韓国大統領
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8月20日、韓国与党セヌリ党が大統領候補に選出したのは、この朴正熙の娘の朴槿恵だ。

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●韓国の大学の歴史研究者のお粗末さ●
関川: ‥‥先方(韓国人)が実証的歴史事実の積み重ねでは説得されるつもりがないことは認識しておかないといけない。
古田: 日韓歴史共同研究委員会も似てますよ。‥‥
日本側の研究者が「資料をご覧になってください」と言うと、韓国側は立ち上がって、「韓国に対する愛情はないのかーっ!」
と、怒鳴る。‥‥さらに、「資料をみせてくれ」と言い返すと、「資料はそうだけれど」とブツブツ呟いて、再び「研究者としての良心はあるのかーっ!」と始まるのです。
関川: 歴史の実証的研究では韓国に勝ち目はないでしょう。事実よりも自分の願望というか、「かくあるべき歴史の物語」を優先させるようですから。‥‥
古田: 民族的感情を満足させるストーリーがまずあって、それに都合のいい資料を貼り付けてくるだけなんですね。
当然、それ以外の様々な資料を検討していくと、矛盾、欠落、誤読がいっぱい出てくる。
櫻井: それは韓国の大学の歴史研究者ですか。
古田: イエス。これは韓国の伝統的な論争の流儀であり、思考パターンなのですね。李朝時代の両班の儒教論争も、みなこれですから。
要するに「自分が正しい」というところからすべてが始まる。実はこの「自分が正しい」という命題が実証不可能なんです。
この思想が突出したものが、北朝鮮の主体思想にほかなりません。
櫻井よしこ・関川夏央・古田博司「韓流“自己絶対正義”の心理構造」
(文藝春秋『諸君!』2006年4月号 69~70頁
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>* 2010年(1位) 直前で閉まったエレベーターに腹を立て、ドアに突撃して転落死した車椅子の韓国の男性
■動画
【韓国】車椅子でエレベーターに 突入する
http://www.youtube.com/watch?v=cE1x8T1rYYE
(参考)
80 本当にあった怖い名無し sage New! 2011/05/06(金) 05:04:21.95 ID:oNS2+D/u0
朝鮮民族とツングース系の代表民族であるエベンキ、エベン族とは共通風習、歌、言葉などから、「朝鮮民族」(引用注:少なくとも近現代の)とは同じ流れと分かる。
馬を持たなかったエベンキ族の代表的な歌は、遠くの人々を懐かしむ「アリラン(迎える)・スーリ(感じとる)」。
朝鮮のアリランには「アーリアリラン、スールスーリラン」とそっくりな言葉が続く。節回しも酷似している。
アリランという言葉、スーリも意味不明と言ってるが、エベンキの言葉では意味はハッキリしているw
朝鮮とエベンキ、ワイ族(引用注:古代の韓とは異なる)には、棒を立てたソッテ、トーテムポールのチャンスンが共通。

韓国のソッテという鳥のトーテム

ソッテ

韓国のチャンスンというトーテム

チャンスン

ソッテとチャンスン

ソッテとチャンスン
「韓国で教える世界史が酷過ぎて呆れた!」