夕刻の備忘録 様のブログより。
世の中には「何処をツッコンでいいのやら」「何処で笑えばいいのやら」サッパリ分からない話がある。しかし、それを真顔で聞いて、真顔で支持する人も居るから、さらにサッパリ分からなくなる。どうやら情報化時代とは、詐欺師が大手を振って表街道を歩き、実に気楽に商売が出来る時代らしい。当然、情報の流通量と、その内容の真偽は全くの別問題であるのだが、その辺りが分からない人が多いからこそ、次から次へと詐欺師が沸いて出て来るのである。
維新公約に議員半減で「身を削る」…橋下氏明言
地域政党・大阪維新の会代表の橋下徹大阪市長は26日、今月中にも最終版を公表する次期衆院選の公約「維新八策」に、衆院議員定数(現行480)を半減することを盛り込む考えを明らかにした。
また、維新幹部によると、国会議員歳費と政党交付金の各3割カットも八策に明記する方針だ。議員の数や経費に関して大幅な削減姿勢を示すことで、既成政党との違いを鮮明にする狙いがある。
橋下氏はこの日、維新と交流のある政治団体・松山維新の会が松山市内で開いた集会で、「国全体の仕事を絞り込めば480なんて数はいらない。維新として半減ということをしっかり出す」と明言。大阪維新の会が国政に進出した場合、歳出削減に取り組む姿勢を強調し、「国民に負担をお願いする前に、(政治家が)身を削らないといけない」と述べた。(2012年8月26日20時40分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/news/20120826-OYT1T00611.htm?from=main5
「身を削る」とは「誰の身」の話なのか。
未だ一人の国会議員も有しない、空想上の存在に過ぎぬ「地域政党」が、国会議員の削減を言いだせば、それが「身を削る話」になるのか。一体何の冗談なのか。プロ野球のコミッショナーが、「サッカーJリーグは多すぎるので半分に減らしたい」と語れば、これは「身を削る提言」になるのか。それでプロ野球側が「よく言った」と評価されるのか。
詐欺師らしいと言えば、それまでだが、ここまで稚拙なハッタリに何故「頷く人」が多いのか。今一度確認しておく、只今現在「国会議員を有しない政党」が定数削減を切り出すことが、どうして「身を削る」ことになるのか。
国会議員の定数は、誰が決めたものか。
それは「国会議員が決めた」ものだ。
自分達の人数を自分達で決めた。
それを「許せない」と怒り、嘆く人がいる。自分のことを自分で決めることが問題なら、他人に決めて貰う無能集団が望ましいとでも言うのだろうか。では国民が決めるのか。政治のことも国会の仕組も分からない国民が、その時々の「マスコミ指令」に従って、多いの少ないのと議論して決めるのか。そこまで国民が関与しなければならない仕組なら、政治家などゼロでよいではないか。それが何故「半減」なのか。
これは詐欺師の常套手段である。
「国全体の仕事を絞り込めば480なんて数はいらない。維新として半減ということをしっかり出す」と嘯いているが、誰が「国全体の仕事を絞り込んだ」のか。国会議員であったこともない、霞ヶ関で仕事をしたこともない人間が、どうして、何を根拠に「絞り込めるのか」。「480なんで数はいらない」などと言いながら、何故「300」でも「100」でもなく、「240」が正しいと言い切れるのか。半減の根拠は何なのか。何処に合理的理由があるのか。デタラメもいい加減にしろ。
「議員定数を減らしたい、何故なら碌でもない議員が多いから」と平気な顔で話す人が多い御時世である。しかし、「碌でもない議員が多い」ことは、議員定数を減らす理由にはならない。その「碌でもない奴」を選んだのは、他でもない国民だからである。国民が「真剣に調査してまともな議員を選べばいい」、唯それだけの話ではないか。
逆に、「碌でもない国民が多いから、国民は今の半分でいい」と言う独裁者が登場した時、これに納得する人は居るのだろうか。「碌でもない国民を淘汰すれば、自然とまともな議員が選ばれるようになる」という主張に同意する人は居るのだろうか。仮に居たとすれば、それは明らかに権力側である、淘汰されない側の人間である。
この事から分かるように、何の根拠も無く適当に数字をでっち上げて、定数削減を訴えるのは、単なる権力の濫用であり、思い上がりである。人の数の削減とは、それが議員定数であっても、勿論、国民の総数であっても、極めて慎重に行われるべきものである。
我が国の少子化問題にしろ、大陸の「一人っ子政策」にしろ、国家に適正な国民の規模、その総数は存在するのだろうが、それを政治家が独断で、しかも短兵急に決めていいはずがない。だからこそ、議員定数の問題は、何度も何度も議論され、微調整されて今に至っているのである。「議員が議員の問題を扱う」から難しいのではない、本質的に難しい問題なのだ。その難しい問題を、如何にも簡単そうに言い、自分なら解決出来ると、具体的な根拠も無く大見得を切るのが、詐欺師の詐欺師たる所以である。
★ ★ ★ ★ ★
国民は「議員定数の削減が意味するところ」を理解すべきである。議員の数が減れば、当然過半数も減る。即ち、より少ない議員数で過半数を得ることが出来る。表向きには「民主主義の体裁」を保ったままで、少数の議員で事を進めることが出来る。
未だ一人の国会議員も有していない「この空想上の政党」は、議員定数削減の余波を全く受けない。つまり、彼等の身は決して削られない。そして同時に、僅かばかりの議員を当選させただけで、これまでの比率の倍以上の発言権を持つようになる。
要するに、「議員定数の削減」とは、自分達だけには「素晴らしく好都合な話」なのである。まさに何の痛みも無く、濡れ手で粟で権力が手に入る。もっと乱暴にいえば、国会議員の定数を10名にした場合を想像して欲しい。一人の議員の当選は、今の48倍の効果を持つ。元々ゼロの政党が、僅かに一人を通すだけで、今の野党第二党程度の勢力となる。自分達には何の痛みもなく、他人だけを窮地に追いやって、それで「身を削る改革」云々とは誠に笑止千万、いや極悪非道の振る舞いと言うべきであろう。
これを「独裁」と言わずに何と言うのか。
弁護士を金儲けの手段と考え、タレント業を売名の手段と考え、知事を権力奪取の手段と考え、市長を国政への手段と考え、そして議員削減を打ち出して、最高権力者の座をより容易く手に入るように画策する。全ては手段であり、その「目的は権力奪取」であった。依頼人も視聴者も、府民も市民も全ては利用すべき他者であり、権力への踏み台に過ぎない。権力亡者の詐欺師の目には、総理大臣への道は、あと僅かに見えているのだろう。確かに定数の大幅削減に成功すれば、それは一気に現実味を帯びてくるのである。
よって、議員定数の「大幅削減」に反対する。減らすなら減らすで、先ずは合理的な議論があるべきだ。「多いから半分」などという「ウルトラどんぶり勘定」で、国の根幹の問題を議論するなら、倍増もゼロも同じ話ではないか。国民は「身を削る」と称して、自分達の得になることしか訴えていない「詐欺師の行状」をもっと注視すべきである。
「身を削る」とは「誰の身」の話なのか。
未だ一人の国会議員も有しない、空想上の存在に過ぎぬ「地域政党」が、国会議員の削減を言いだせば、それが「身を削る話」になるのか。一体何の冗談なのか。プロ野球のコミッショナーが、「サッカーJリーグは多すぎるので半分に減らしたい」と語れば、これは「身を削る提言」になるのか。それでプロ野球側が「よく言った」と評価されるのか。
詐欺師らしいと言えば、それまでだが、ここまで稚拙なハッタリに何故「頷く人」が多いのか。今一度確認しておく、只今現在「国会議員を有しない政党」が定数削減を切り出すことが、どうして「身を削る」ことになるのか。
国会議員の定数は、誰が決めたものか。
それは「国会議員が決めた」ものだ。
自分達の人数を自分達で決めた。
それを「許せない」と怒り、嘆く人がいる。自分のことを自分で決めることが問題なら、他人に決めて貰う無能集団が望ましいとでも言うのだろうか。では国民が決めるのか。政治のことも国会の仕組も分からない国民が、その時々の「マスコミ指令」に従って、多いの少ないのと議論して決めるのか。そこまで国民が関与しなければならない仕組なら、政治家などゼロでよいではないか。それが何故「半減」なのか。
これは詐欺師の常套手段である。
「国全体の仕事を絞り込めば480なんて数はいらない。維新として半減ということをしっかり出す」と嘯いているが、誰が「国全体の仕事を絞り込んだ」のか。国会議員であったこともない、霞ヶ関で仕事をしたこともない人間が、どうして、何を根拠に「絞り込めるのか」。「480なんで数はいらない」などと言いながら、何故「300」でも「100」でもなく、「240」が正しいと言い切れるのか。半減の根拠は何なのか。何処に合理的理由があるのか。デタラメもいい加減にしろ。
「議員定数を減らしたい、何故なら碌でもない議員が多いから」と平気な顔で話す人が多い御時世である。しかし、「碌でもない議員が多い」ことは、議員定数を減らす理由にはならない。その「碌でもない奴」を選んだのは、他でもない国民だからである。国民が「真剣に調査してまともな議員を選べばいい」、唯それだけの話ではないか。
逆に、「碌でもない国民が多いから、国民は今の半分でいい」と言う独裁者が登場した時、これに納得する人は居るのだろうか。「碌でもない国民を淘汰すれば、自然とまともな議員が選ばれるようになる」という主張に同意する人は居るのだろうか。仮に居たとすれば、それは明らかに権力側である、淘汰されない側の人間である。
この事から分かるように、何の根拠も無く適当に数字をでっち上げて、定数削減を訴えるのは、単なる権力の濫用であり、思い上がりである。人の数の削減とは、それが議員定数であっても、勿論、国民の総数であっても、極めて慎重に行われるべきものである。
我が国の少子化問題にしろ、大陸の「一人っ子政策」にしろ、国家に適正な国民の規模、その総数は存在するのだろうが、それを政治家が独断で、しかも短兵急に決めていいはずがない。だからこそ、議員定数の問題は、何度も何度も議論され、微調整されて今に至っているのである。「議員が議員の問題を扱う」から難しいのではない、本質的に難しい問題なのだ。その難しい問題を、如何にも簡単そうに言い、自分なら解決出来ると、具体的な根拠も無く大見得を切るのが、詐欺師の詐欺師たる所以である。
★ ★ ★ ★ ★
国民は「議員定数の削減が意味するところ」を理解すべきである。議員の数が減れば、当然過半数も減る。即ち、より少ない議員数で過半数を得ることが出来る。表向きには「民主主義の体裁」を保ったままで、少数の議員で事を進めることが出来る。
未だ一人の国会議員も有していない「この空想上の政党」は、議員定数削減の余波を全く受けない。つまり、彼等の身は決して削られない。そして同時に、僅かばかりの議員を当選させただけで、これまでの比率の倍以上の発言権を持つようになる。
要するに、「議員定数の削減」とは、自分達だけには「素晴らしく好都合な話」なのである。まさに何の痛みも無く、濡れ手で粟で権力が手に入る。もっと乱暴にいえば、国会議員の定数を10名にした場合を想像して欲しい。一人の議員の当選は、今の48倍の効果を持つ。元々ゼロの政党が、僅かに一人を通すだけで、今の野党第二党程度の勢力となる。自分達には何の痛みもなく、他人だけを窮地に追いやって、それで「身を削る改革」云々とは誠に笑止千万、いや極悪非道の振る舞いと言うべきであろう。
これを「独裁」と言わずに何と言うのか。
弁護士を金儲けの手段と考え、タレント業を売名の手段と考え、知事を権力奪取の手段と考え、市長を国政への手段と考え、そして議員削減を打ち出して、最高権力者の座をより容易く手に入るように画策する。全ては手段であり、その「目的は権力奪取」であった。依頼人も視聴者も、府民も市民も全ては利用すべき他者であり、権力への踏み台に過ぎない。権力亡者の詐欺師の目には、総理大臣への道は、あと僅かに見えているのだろう。確かに定数の大幅削減に成功すれば、それは一気に現実味を帯びてくるのである。
よって、議員定数の「大幅削減」に反対する。減らすなら減らすで、先ずは合理的な議論があるべきだ。「多いから半分」などという「ウルトラどんぶり勘定」で、国の根幹の問題を議論するなら、倍増もゼロも同じ話ではないか。国民は「身を削る」と称して、自分達の得になることしか訴えていない「詐欺師の行状」をもっと注視すべきである。