夕刻の備忘録 様のブログより。
このところの某国の主張を見れば、彼等が如何に「気楽に商売をしているか」が分かる。何の苦労も無く小学生でも出来るレベルのインチキが、国を代表すると称するメディアに掲載される。曰く「我々は侮辱された」「日本は反省しろ」「非礼を許さん」「謝罪撤回しろ」、そして極め付けが「親書の返送を受け付けないのは外交儀礼に反する」である。
要するに、彼等は「主語を入れ換えるだけで無限に作文出来る」という本当に気楽で便利な商売を手に入れたのである。従って、我々日本人は彼等の主張の主語を再び入れ換えれば、こちらの主張が分かる。勿論、そんな悪趣味なことをする人は居ないだろうが。
しかし、我が国のマスコミはそうではない。彼等はこれを「泥仕合」と位置付ける。そして、「双方共に冷静に」と上から目線で窘める。「批判の応酬は建設的ではない」などと事実に反することを書き続ける。国家の象徴を侮辱したのはどちらか、冷静でないのはどちらか、先に仕掛けたのはどちらか、無礼なのは、外交儀礼に反したのはどちらか、そんなことにはお構いなしに、伝家の宝刀「喧嘩両成敗」を振りかざし、かの国と日本を同列に並べて「仕事完了」である。これまた小学生でも出来る気楽な商売である。
★ ★ ★ ★ ★
最大の問題は、「鏡に向かって怒鳴り続ける」イカレタ国ではない。キ印相手に叮嚀に応対している我が国を、同列に扱うマスコミでもない。本当に根深い問題は、こんな幼稚な手法に踊らされる一部の日本国民である。その一部が「相当大きい」ところにある。日本人は詐欺師、ペテン師の基本手口をあまりにも知らない、知らな過ぎる。
まさに「絶妙のタイミング」で、大阪市長が口を開いた。河野談話の批判を始めた。それに対して、「絶賛の声」が挙がっている。これまで懐疑的だったマスコミの一部でも、この件に関しては評価出来ると書いている。問題は、彼の支持者の評価ではない。常日頃、批判していた者が、「この件に関しては評価出来る」と言っているところにある。
ボケるのもいい加減にして欲しい。
長く我々は親から、教師から、先輩から「信用を得るのは大変だが、失うのは一瞬だ」と教えられてきた。「一度失った信用は、容易に取り戻せない」とも言われてきた。個々人がそれを信じ、まさに実感した結果、日本人全体の「信義感覚」が構築されてきたのである。このことを直接否定した人を見たことはない。今なお、「生きている格言」であると思う。いや思いたい。
しかし、マスコミはこの逆を地で行く存在なのだ。マスコミは「忽ち信用を得て、幾らボロを出してもその信用を失わない」、そこには我々個人とは全く逆の評価基準が存在している。偏向・捏造をどれだけ暴露されても、テレビでラジオで、アナウンサーが臭い芝居を始めると、国民はそれを「真実」として受け入れてしまう。
こうして、マスコミにより「某国の真の姿」は隠されてきたのである。勿論、我々にも警句はある。「話半分、嘘半分として聞いておこう」という類のものである。しかし、大手マスコミが介在すると、途端にこのレイトは変更される。嘘八割、真実二割でも、嘘九割でも人はそれを「全面的な真実」として受け取ってしまう。
大阪市長など典型的である。九割のデタラメに、一割の真実をブレンドしておけばいいのである。それで九割も真実になる。今回の河野談話云々がよい例であろう。「日頃の言動は気に入らないが、今回の件はよかった、見直した」などという声が多く挙がることが、まさに日本の「信義感覚」の衰退を表している。
得意顔で、「是々非々でいきましょう」などと言う人間が一番信用ならない。「ダメなものは排除して、良い意見なら素直に認めるべきだ」などと平気で宣うテレビ評論家こそ、「信義の敵」である。
それでは意図的に嘘を混ぜ、意図的に善人を気取る詐欺師、ペテン師に勝てはしない。彼等は百%嘘を吐き続けるから詐欺師なのではない。上手いブレンドを見付けているから商売が成り立っているのだ。鏡に向かうように、やることなすこと全部嘘という某国の幼稚な手法ではない、絶妙の混ざり具合が、それを可能にしているのである。実際、某国の想像を絶する虚言体質を包み隠しているのは、こうしたマスコミの涙ぐましいサポートによる。彼等の「百%の嘘」を、巧みに粉飾しているのが、他ならぬ我が国のマスコミなのであるから、誠に始末が悪いのである。
★ ★ ★ ★ ★
日本が「スパイ天国」と揶揄されるのは法整備上の不備からくるものだけではない。「一度でも騙した人間は絶対に信用しないぞ!」という国民の強い決意が肌で感じられないから、彼等は仕事がしやすいのである。嘘百回で「一つの真実」に交換出来るから、彼等は容易く希望のものを手に入れるのである。そして、実際の交換レートはズッとズッと低いのである。だから素人でも嘘を吐く、吐き続けるのである。
公人として、平然と嘘を吐いた人間は、生涯信用する必要は無い。たまに好いことを言った、自分の気に入る発言をしたからといって、それを易々と評価し、「彼を見直した」だとか、「本当はこういう人なんだ」だとか言っているようでは、あらゆることに騙される。
「ダメなものを排除して、良いものだけを抽出する」などという極めて困難な作業を、誰もが出来るように言っている段階で、その人間に信を置く必要は無い。そんなことが出来るくらいなら、全ての人間の人生は、平和で安定した心安らかなものであるはずだ。現実を見れば、そうでないことは誰でも分かることだろう。
「党で選ばず人で選べ」などと言うが、「人格を見抜く力が無い人間」が選んだ人など、どうして信用出来るのか。より難しいことを、実は簡単なことのように言い繕うことこそ、詐欺の基本的手口の一つである。
百年に一度の「国交断絶の大チャンス」に向け、理想を夢見るお花畑型の格言ではなく、より現実を描写した警句こそが、重んじられなければならない。今我々に必要なことは、某国の異常な言動の中に、僅かばかりの真実を見出す努力をすることではなく、「単なる虚言症国家」と一刀両断に断罪し、そして「人を見たら泥棒と思え」と腹の中で唱えることである。誠に残念ではあるが、これが真実である。真実を覆い隠し、あらぬ理想を語ることも「虚言の一種」であることを肝に銘じるべきである。鳩山を見よ!
猫撫で声で擦り寄ってくる人、国を二度と寄せ付けない。一度吐いた嘘は許さない。二度と信用は戻さない。それが出来なければ、何度でも騙される。そして、騙された被害は、当の本人だけではない、周囲の誰をも不幸にするのである。日本人の「信義感覚」が今ほど問われている時期は無い。騙されることも罪なのである。
要するに、彼等は「主語を入れ換えるだけで無限に作文出来る」という本当に気楽で便利な商売を手に入れたのである。従って、我々日本人は彼等の主張の主語を再び入れ換えれば、こちらの主張が分かる。勿論、そんな悪趣味なことをする人は居ないだろうが。
しかし、我が国のマスコミはそうではない。彼等はこれを「泥仕合」と位置付ける。そして、「双方共に冷静に」と上から目線で窘める。「批判の応酬は建設的ではない」などと事実に反することを書き続ける。国家の象徴を侮辱したのはどちらか、冷静でないのはどちらか、先に仕掛けたのはどちらか、無礼なのは、外交儀礼に反したのはどちらか、そんなことにはお構いなしに、伝家の宝刀「喧嘩両成敗」を振りかざし、かの国と日本を同列に並べて「仕事完了」である。これまた小学生でも出来る気楽な商売である。
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最大の問題は、「鏡に向かって怒鳴り続ける」イカレタ国ではない。キ印相手に叮嚀に応対している我が国を、同列に扱うマスコミでもない。本当に根深い問題は、こんな幼稚な手法に踊らされる一部の日本国民である。その一部が「相当大きい」ところにある。日本人は詐欺師、ペテン師の基本手口をあまりにも知らない、知らな過ぎる。
まさに「絶妙のタイミング」で、大阪市長が口を開いた。河野談話の批判を始めた。それに対して、「絶賛の声」が挙がっている。これまで懐疑的だったマスコミの一部でも、この件に関しては評価出来ると書いている。問題は、彼の支持者の評価ではない。常日頃、批判していた者が、「この件に関しては評価出来る」と言っているところにある。
ボケるのもいい加減にして欲しい。
長く我々は親から、教師から、先輩から「信用を得るのは大変だが、失うのは一瞬だ」と教えられてきた。「一度失った信用は、容易に取り戻せない」とも言われてきた。個々人がそれを信じ、まさに実感した結果、日本人全体の「信義感覚」が構築されてきたのである。このことを直接否定した人を見たことはない。今なお、「生きている格言」であると思う。いや思いたい。
しかし、マスコミはこの逆を地で行く存在なのだ。マスコミは「忽ち信用を得て、幾らボロを出してもその信用を失わない」、そこには我々個人とは全く逆の評価基準が存在している。偏向・捏造をどれだけ暴露されても、テレビでラジオで、アナウンサーが臭い芝居を始めると、国民はそれを「真実」として受け入れてしまう。
こうして、マスコミにより「某国の真の姿」は隠されてきたのである。勿論、我々にも警句はある。「話半分、嘘半分として聞いておこう」という類のものである。しかし、大手マスコミが介在すると、途端にこのレイトは変更される。嘘八割、真実二割でも、嘘九割でも人はそれを「全面的な真実」として受け取ってしまう。
大阪市長など典型的である。九割のデタラメに、一割の真実をブレンドしておけばいいのである。それで九割も真実になる。今回の河野談話云々がよい例であろう。「日頃の言動は気に入らないが、今回の件はよかった、見直した」などという声が多く挙がることが、まさに日本の「信義感覚」の衰退を表している。
得意顔で、「是々非々でいきましょう」などと言う人間が一番信用ならない。「ダメなものは排除して、良い意見なら素直に認めるべきだ」などと平気で宣うテレビ評論家こそ、「信義の敵」である。
それでは意図的に嘘を混ぜ、意図的に善人を気取る詐欺師、ペテン師に勝てはしない。彼等は百%嘘を吐き続けるから詐欺師なのではない。上手いブレンドを見付けているから商売が成り立っているのだ。鏡に向かうように、やることなすこと全部嘘という某国の幼稚な手法ではない、絶妙の混ざり具合が、それを可能にしているのである。実際、某国の想像を絶する虚言体質を包み隠しているのは、こうしたマスコミの涙ぐましいサポートによる。彼等の「百%の嘘」を、巧みに粉飾しているのが、他ならぬ我が国のマスコミなのであるから、誠に始末が悪いのである。
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日本が「スパイ天国」と揶揄されるのは法整備上の不備からくるものだけではない。「一度でも騙した人間は絶対に信用しないぞ!」という国民の強い決意が肌で感じられないから、彼等は仕事がしやすいのである。嘘百回で「一つの真実」に交換出来るから、彼等は容易く希望のものを手に入れるのである。そして、実際の交換レートはズッとズッと低いのである。だから素人でも嘘を吐く、吐き続けるのである。
公人として、平然と嘘を吐いた人間は、生涯信用する必要は無い。たまに好いことを言った、自分の気に入る発言をしたからといって、それを易々と評価し、「彼を見直した」だとか、「本当はこういう人なんだ」だとか言っているようでは、あらゆることに騙される。
「ダメなものを排除して、良いものだけを抽出する」などという極めて困難な作業を、誰もが出来るように言っている段階で、その人間に信を置く必要は無い。そんなことが出来るくらいなら、全ての人間の人生は、平和で安定した心安らかなものであるはずだ。現実を見れば、そうでないことは誰でも分かることだろう。
「党で選ばず人で選べ」などと言うが、「人格を見抜く力が無い人間」が選んだ人など、どうして信用出来るのか。より難しいことを、実は簡単なことのように言い繕うことこそ、詐欺の基本的手口の一つである。
百年に一度の「国交断絶の大チャンス」に向け、理想を夢見るお花畑型の格言ではなく、より現実を描写した警句こそが、重んじられなければならない。今我々に必要なことは、某国の異常な言動の中に、僅かばかりの真実を見出す努力をすることではなく、「単なる虚言症国家」と一刀両断に断罪し、そして「人を見たら泥棒と思え」と腹の中で唱えることである。誠に残念ではあるが、これが真実である。真実を覆い隠し、あらぬ理想を語ることも「虚言の一種」であることを肝に銘じるべきである。鳩山を見よ!
猫撫で声で擦り寄ってくる人、国を二度と寄せ付けない。一度吐いた嘘は許さない。二度と信用は戻さない。それが出来なければ、何度でも騙される。そして、騙された被害は、当の本人だけではない、周囲の誰をも不幸にするのである。日本人の「信義感覚」が今ほど問われている時期は無い。騙されることも罪なのである。