ねずさんのひとりごと より。

中華人民共和国国歌といえば「義勇軍進行曲」ですが、この歌実は日本で作曲され、歌詞も日本で受けた教育がもとになっていることは、みなさんご存知でしょうか。
たぶん、以下をお読みいただくと、めっちゃおもしろいと思います。
けれど、史実です。
昭和10(1935)年のことです。
支那で「風雲児女(嵐の中の若者たち)」という映画が上映されました。
その映画の中で、若者達が軽いノリで笑いながら歌う歌が、実は後に中和人共和国国歌となる「義勇軍進行曲」だったのです。
この歌は、その後、旧満州の抗日デモなどで盛んに歌われるようになるのですが、歌詞にある「起来! 不願做奴隸的人們!(起て、奴隷になることを願わぬ人々よ)」が、多くの支那人の共感を呼び、支那の民族解放運動の行進曲として支那全土へと広がって行きました。
従って、この歌詞の「起来! 不願做奴隸的人們!」は、ある意味すごい伝播力をもった素晴らしいコピーとなったわけですが、実はこの歌詞を書いた田漢(でんかん、簡体字表記は田汉)は、日本の東京高等師範学校で学んだ人です。
田漢(でんかん)
田漢が師範学校で学んだ期間は、大正6(1917)年から大正9年までの4年間です。
この頃の日本は、日露戦争で大勝利をおさめ、大正3(1914)年には人類史上初の世界的大戦争である第一次世界大戦に、欧米連合国の一員として参戦し、またたく間にドイツ軍を降伏させた、まさに日の出の勢いの国家でした。
そして東京師範学校は、もちろん軍人養成校でもあるわけですから、国威発揚精神教育、東亜の伝統を重んずる精神の育成、欧米の植民地支配の実情と歴史に関する教育、東洋民族解放のために必要な精神の熟成等を生徒たちに教えていました。
じつは、そうした文化観、歴史観というものは、当時の東洋(のみならず世界)に、ないものです。
当時の世界は、白人こそが「人」であり、有色人種は「人の皮をかぶっただけのバルバロイ(獣人)」でしかない。それが世界の普遍的標準的思想です。
いまの世の中では、人種の平等は、むしろあたりまえのことですが、当時の世界では、人類の平等や、諸民族のもつ歴史の素晴らしさ、そしてそのために必要な具体的課題を教えているのは、日本の師範学校だけだったのです。
田漢にとって、東京師範学校での体験がいかに刺激的なものであったか。
そのことは想像するにあまりあります。
ここでひとこと添えますと、共産主義というのは、一面において人種の平等を歌います。
もともとがロシア的ユートピア思想からきていますから、人に上下の差別なく、人種のさべつさえもないユートピア(これを原始共産主義社会といいます)の建設を至上課題としています。
ですから田漢の生きた「西欧による人種差別があたりまえ」の時代に、平等主義である共産主義は、たいへんな人気となったわけです。
ところが、共産主義思想においては、めざす結果としてのユートピアは、結果としてはただの偽装でしかなく、実体は上下関係(社会的関係)を、ただ破壊するだけの破壊主義でしかなかったわけです。
なぜなら、共産主義は、ユートピア建設のために、既存の社会的仕組みを破壊することを正義とするからです。
これに対し、日本の師範学校で教えた主義思想は、人種は平等であること。そしてその平等を実現したいならば、自らを律し、自らが立派な人間、立派な存在に成長することによって、西欧社会の信頼を勝ち得よう、というものでした。
だからこそ、田漢は、「戦え、奴隷になるな」と作詞したわけですが、その意図にあったのは、人が人を殺し奪うという戦いではなく、自分との戦いにおいて、奴隷にならない立派な人間になろうという意図があったし、だからこそこの歌詞が、支那の多くの文化人に受け入れられたわけです。
ただ、現実には、中共においては、田漢の「戦え」が、いまだに「自分」ではなく、相手を殺すという「他人」に向けられて解釈されています。
残念なことです。
田漢は、上海に帰国すると、すぐに雑誌「南国月刊」を創刊しました。
東洋民族の民族愛と、東亜の歴史伝統を伝える雑誌です。
欧米による植民地支配があたりまえの常識だった時代において、彼の創刊した「南国月刊」は、支那の文化人たちのなかで、まさに大ヒット雑誌となりました。
そしてこの雑誌のヒットにより、田漢は、昭和3(1928)年には、文学・絵画・音楽・演劇・映画の5部門をもつ南国芸術学院を開校させるに至っています。
そして田漢は、昭和7(1932)年、支那共産党に入党しました。
そもそも人種どころか人そのものに上下の区別(差別)はない、原始共産主義であるユートピアにおいては、人はみな平等であるというのが、共産主義の建前です。
人種の平等、奴隷支配からの脱却を希求する田漢が、思想としての共産主義に傾倒したのも、うなづけます。
共産党員となった田漢は、戦時中から戦後の共産党政権誕生後にかけて、中共政府の芸術部門の責任者として、芸術を中心とした国威発揚に多大な貢献をしました。
その中のひとつが、昭和10(1935)年の映画「風雲児女(嵐の中の若者たち)」であり、彼の作詞した「起来! 不願做奴隸的人們!」であり、他にもたとえば京劇の代表作である「白蛇伝」も、田漢が台本執筆を行うことで普及したものです。
こうして支那共産党に多大な貢献をした田漢ですが、昭和40(1965)年にはじまる毛沢東の文化大革命によって、彼は、吊るし上げをくらいました。
理由は、ひとつは、彼が歴史的文化を大切にする人物であるということ、もうひとつは、彼の持つその民族的文化意識の原点が日本文化に依拠していることです。
そもそも西欧における思想としての共産主義(マルクス主義)は、人類の至高の姿をユートピアに求めるものです。
けれど毛沢東による修正共産主義は、ひとことでいえば絶対君主による専制共産主義です。
ですから尊重すべきは絶対君主(毛沢東)であり、支那の歴史、伝統、文化は、否定の対象です。
支那共産党の共産主義普及のために多大な貢献をした田漢でしたが、結局彼は逮捕投獄され、昭和43(1968)年、獄中で非業の死を遂げています。
けれど、本人が死んだからといって「死んだら仏さんだから」と許すような精神は、支那人にはありません。
昭和45(1970)年、田漢は、支那共産党によって、周揚、夏衍、陽翰笙とともに「四大悪漢」というレッテルを貼られ、さらに昭和50(1975)年には、党籍の永久剥奪処分が決定されています。
亡くなって7年も経ったあとに、です。
そのころ、田漢の作詞した「義勇軍行進曲」は、中共政府の国威発揚の楽曲として普及していましたが、田漢の処分により、中共内部では田漢の作詞した歌は歌えず、行進曲は、曲の演奏のみにとどめられています。
これが覆されたのは、さらにその4年後、昭和54(1979)年のことです。
文革に対する否定から、田漢の名誉は回復され、昭和57(1982)年12月4日の第5期全国人民代表大会第5回総会で、「義勇軍行進曲」は、ようやく歌詞も「中華人民共和国の国歌」として正式に認められるものとなっています。
さて一方、「義勇軍行進曲」の曲の方です。
こちらは、聶耳(じょうじ、ニエ アル)の作曲です。
聶耳(じょうじ)
聶耳は、雲南省昆明生まれの人で、幼い頃から楽器に親しみ、昆明省立第一師範学校高級部在学時代に共産主義活動にはいったといわれています。
昭和5(1930)年に上海に渡った聶耳は、貧しい生活の中でバイオリンの独学を休まず続け、翌年には「明月歌舞団」のバイオリニストに採用され、職業音楽家としての第一歩を踏み出しています。
そして主に上海を拠点に「採掘の歌」「波止場労働者の歌」など左翼系演劇の楽曲を数多く世に送り出し、それなりの収入も得れるようになりました。
そして昭和8(1933)年、聶耳は、正式に共産党に入党する。
ところが、この頃から、蒋介石の国民党軍閥による共産党狩りが、エスカレートしていきます。
昭和10(1935)年には、聶耳の周囲にいる共産党員たちが次々と逮捕、投獄、処刑されていきます。
友人の田漢も逮捕されました。
そして近日中には、聶耳も逮捕されるという情報がもたらされまます。
聶耳は、上海を抜け出しました。
そして、ひそかに日本に渡りました。
これが、同年4月のことです。
ちょうどそのころ上海では、田漢の南国芸術学院が、映画「風雲児女(嵐の中の若者たち)」の撮影がすすんでいました。
南国芸術学院の田漢は、獄中でこの映画のための主題歌「義勇軍進行曲」を作詞し、それは人づてに密かに持ち出されます。
日本へ渡航する準備をしていた聶耳は、このことを知ると、自ら進んでその歌詞に作曲したいと告げ、そして、「日本に渡って、日本で生活をしながら」作曲し、ようやく5月初めに完成した決定稿が、いまの中華人民共和国国歌の、「義勇軍行進曲」の旋律です。
完成した曲は、日本の書留郵便で上海に送られました。
そして、支那共産党の映画「風雲児女」が完成する。
こうなると共産党狩りをしていた上海の国民党は、聶耳を放置できなくなります。
そして不思議な出来事が起こりました。
聶耳が日本に亡命した昭和10(1035)年7月17日のことです。
この日、神奈川県藤沢市にある鵠沼海岸で友人らと海水浴を楽しんでいた聶耳は、この日の午後、遊泳中に海で溺れて、水死したのです。
原因はわかりません。
ただ、水死体の検分結果では、通常の海で溺れた遺体と、特にかわりはなかったそうです。
ちなみに藤沢市では、昭和24(1949)年に、有志により聶耳を記念する運動が起こり、昭和29(1954)年には、聶耳記念碑が建立されています。
聶耳記念碑(神奈川県藤沢市)
この記念碑は、昭和33(1958)年の狩野川台風でいちど流されてしまうのですが、昭和40(1965)年には記念碑保存会が発足し、昭和61(1986)年に、神奈川県と藤沢市、そして有志の浄財で、再び記念碑が建立されています。
中共政府の国歌「義勇軍行進曲」。
支那の民衆に愛されているその国歌は、不思議なことに、歌詞は日本で民族自立を教育された田漢によって、曲は、日本に亡命していた聶耳によって、日本で書かれたものでした。
そうそう。
そういえば、中華人民共和国という国名も、「人民」「共和」は、日本で作られた造語であり、日本語です。
はてさて、国名の半分が日本語で、国歌も日本で教育を受けた人が書き、曲も日本で作曲された。
その中共政府が、世界で他に類例のないような反日国家であるというのは、なんとも不思議不思議なできごとですね。
支那で「風雲児女(嵐の中の若者たち)」という映画が上映されました。
その映画の中で、若者達が軽いノリで笑いながら歌う歌が、実は後に中和人共和国国歌となる「義勇軍進行曲」だったのです。
この歌は、その後、旧満州の抗日デモなどで盛んに歌われるようになるのですが、歌詞にある「起来! 不願做奴隸的人們!(起て、奴隷になることを願わぬ人々よ)」が、多くの支那人の共感を呼び、支那の民族解放運動の行進曲として支那全土へと広がって行きました。
従って、この歌詞の「起来! 不願做奴隸的人們!」は、ある意味すごい伝播力をもった素晴らしいコピーとなったわけですが、実はこの歌詞を書いた田漢(でんかん、簡体字表記は田汉)は、日本の東京高等師範学校で学んだ人です。

田漢が師範学校で学んだ期間は、大正6(1917)年から大正9年までの4年間です。
この頃の日本は、日露戦争で大勝利をおさめ、大正3(1914)年には人類史上初の世界的大戦争である第一次世界大戦に、欧米連合国の一員として参戦し、またたく間にドイツ軍を降伏させた、まさに日の出の勢いの国家でした。
そして東京師範学校は、もちろん軍人養成校でもあるわけですから、国威発揚精神教育、東亜の伝統を重んずる精神の育成、欧米の植民地支配の実情と歴史に関する教育、東洋民族解放のために必要な精神の熟成等を生徒たちに教えていました。
じつは、そうした文化観、歴史観というものは、当時の東洋(のみならず世界)に、ないものです。
当時の世界は、白人こそが「人」であり、有色人種は「人の皮をかぶっただけのバルバロイ(獣人)」でしかない。それが世界の普遍的標準的思想です。
いまの世の中では、人種の平等は、むしろあたりまえのことですが、当時の世界では、人類の平等や、諸民族のもつ歴史の素晴らしさ、そしてそのために必要な具体的課題を教えているのは、日本の師範学校だけだったのです。
田漢にとって、東京師範学校での体験がいかに刺激的なものであったか。
そのことは想像するにあまりあります。
ここでひとこと添えますと、共産主義というのは、一面において人種の平等を歌います。
もともとがロシア的ユートピア思想からきていますから、人に上下の差別なく、人種のさべつさえもないユートピア(これを原始共産主義社会といいます)の建設を至上課題としています。
ですから田漢の生きた「西欧による人種差別があたりまえ」の時代に、平等主義である共産主義は、たいへんな人気となったわけです。
ところが、共産主義思想においては、めざす結果としてのユートピアは、結果としてはただの偽装でしかなく、実体は上下関係(社会的関係)を、ただ破壊するだけの破壊主義でしかなかったわけです。
なぜなら、共産主義は、ユートピア建設のために、既存の社会的仕組みを破壊することを正義とするからです。
これに対し、日本の師範学校で教えた主義思想は、人種は平等であること。そしてその平等を実現したいならば、自らを律し、自らが立派な人間、立派な存在に成長することによって、西欧社会の信頼を勝ち得よう、というものでした。
だからこそ、田漢は、「戦え、奴隷になるな」と作詞したわけですが、その意図にあったのは、人が人を殺し奪うという戦いではなく、自分との戦いにおいて、奴隷にならない立派な人間になろうという意図があったし、だからこそこの歌詞が、支那の多くの文化人に受け入れられたわけです。
ただ、現実には、中共においては、田漢の「戦え」が、いまだに「自分」ではなく、相手を殺すという「他人」に向けられて解釈されています。
残念なことです。
田漢は、上海に帰国すると、すぐに雑誌「南国月刊」を創刊しました。
東洋民族の民族愛と、東亜の歴史伝統を伝える雑誌です。
欧米による植民地支配があたりまえの常識だった時代において、彼の創刊した「南国月刊」は、支那の文化人たちのなかで、まさに大ヒット雑誌となりました。
そしてこの雑誌のヒットにより、田漢は、昭和3(1928)年には、文学・絵画・音楽・演劇・映画の5部門をもつ南国芸術学院を開校させるに至っています。
そして田漢は、昭和7(1932)年、支那共産党に入党しました。
そもそも人種どころか人そのものに上下の区別(差別)はない、原始共産主義であるユートピアにおいては、人はみな平等であるというのが、共産主義の建前です。
人種の平等、奴隷支配からの脱却を希求する田漢が、思想としての共産主義に傾倒したのも、うなづけます。
共産党員となった田漢は、戦時中から戦後の共産党政権誕生後にかけて、中共政府の芸術部門の責任者として、芸術を中心とした国威発揚に多大な貢献をしました。
その中のひとつが、昭和10(1935)年の映画「風雲児女(嵐の中の若者たち)」であり、彼の作詞した「起来! 不願做奴隸的人們!」であり、他にもたとえば京劇の代表作である「白蛇伝」も、田漢が台本執筆を行うことで普及したものです。
こうして支那共産党に多大な貢献をした田漢ですが、昭和40(1965)年にはじまる毛沢東の文化大革命によって、彼は、吊るし上げをくらいました。
理由は、ひとつは、彼が歴史的文化を大切にする人物であるということ、もうひとつは、彼の持つその民族的文化意識の原点が日本文化に依拠していることです。
そもそも西欧における思想としての共産主義(マルクス主義)は、人類の至高の姿をユートピアに求めるものです。
けれど毛沢東による修正共産主義は、ひとことでいえば絶対君主による専制共産主義です。
ですから尊重すべきは絶対君主(毛沢東)であり、支那の歴史、伝統、文化は、否定の対象です。
支那共産党の共産主義普及のために多大な貢献をした田漢でしたが、結局彼は逮捕投獄され、昭和43(1968)年、獄中で非業の死を遂げています。
けれど、本人が死んだからといって「死んだら仏さんだから」と許すような精神は、支那人にはありません。
昭和45(1970)年、田漢は、支那共産党によって、周揚、夏衍、陽翰笙とともに「四大悪漢」というレッテルを貼られ、さらに昭和50(1975)年には、党籍の永久剥奪処分が決定されています。
亡くなって7年も経ったあとに、です。
そのころ、田漢の作詞した「義勇軍行進曲」は、中共政府の国威発揚の楽曲として普及していましたが、田漢の処分により、中共内部では田漢の作詞した歌は歌えず、行進曲は、曲の演奏のみにとどめられています。
これが覆されたのは、さらにその4年後、昭和54(1979)年のことです。
文革に対する否定から、田漢の名誉は回復され、昭和57(1982)年12月4日の第5期全国人民代表大会第5回総会で、「義勇軍行進曲」は、ようやく歌詞も「中華人民共和国の国歌」として正式に認められるものとなっています。
さて一方、「義勇軍行進曲」の曲の方です。
こちらは、聶耳(じょうじ、ニエ アル)の作曲です。

聶耳は、雲南省昆明生まれの人で、幼い頃から楽器に親しみ、昆明省立第一師範学校高級部在学時代に共産主義活動にはいったといわれています。
昭和5(1930)年に上海に渡った聶耳は、貧しい生活の中でバイオリンの独学を休まず続け、翌年には「明月歌舞団」のバイオリニストに採用され、職業音楽家としての第一歩を踏み出しています。
そして主に上海を拠点に「採掘の歌」「波止場労働者の歌」など左翼系演劇の楽曲を数多く世に送り出し、それなりの収入も得れるようになりました。
そして昭和8(1933)年、聶耳は、正式に共産党に入党する。
ところが、この頃から、蒋介石の国民党軍閥による共産党狩りが、エスカレートしていきます。
昭和10(1935)年には、聶耳の周囲にいる共産党員たちが次々と逮捕、投獄、処刑されていきます。
友人の田漢も逮捕されました。
そして近日中には、聶耳も逮捕されるという情報がもたらされまます。
聶耳は、上海を抜け出しました。
そして、ひそかに日本に渡りました。
これが、同年4月のことです。
ちょうどそのころ上海では、田漢の南国芸術学院が、映画「風雲児女(嵐の中の若者たち)」の撮影がすすんでいました。
南国芸術学院の田漢は、獄中でこの映画のための主題歌「義勇軍進行曲」を作詞し、それは人づてに密かに持ち出されます。
日本へ渡航する準備をしていた聶耳は、このことを知ると、自ら進んでその歌詞に作曲したいと告げ、そして、「日本に渡って、日本で生活をしながら」作曲し、ようやく5月初めに完成した決定稿が、いまの中華人民共和国国歌の、「義勇軍行進曲」の旋律です。
完成した曲は、日本の書留郵便で上海に送られました。
そして、支那共産党の映画「風雲児女」が完成する。
こうなると共産党狩りをしていた上海の国民党は、聶耳を放置できなくなります。
そして不思議な出来事が起こりました。
聶耳が日本に亡命した昭和10(1035)年7月17日のことです。
この日、神奈川県藤沢市にある鵠沼海岸で友人らと海水浴を楽しんでいた聶耳は、この日の午後、遊泳中に海で溺れて、水死したのです。
原因はわかりません。
ただ、水死体の検分結果では、通常の海で溺れた遺体と、特にかわりはなかったそうです。
ちなみに藤沢市では、昭和24(1949)年に、有志により聶耳を記念する運動が起こり、昭和29(1954)年には、聶耳記念碑が建立されています。

この記念碑は、昭和33(1958)年の狩野川台風でいちど流されてしまうのですが、昭和40(1965)年には記念碑保存会が発足し、昭和61(1986)年に、神奈川県と藤沢市、そして有志の浄財で、再び記念碑が建立されています。
中共政府の国歌「義勇軍行進曲」。
支那の民衆に愛されているその国歌は、不思議なことに、歌詞は日本で民族自立を教育された田漢によって、曲は、日本に亡命していた聶耳によって、日本で書かれたものでした。
そうそう。
そういえば、中華人民共和国という国名も、「人民」「共和」は、日本で作られた造語であり、日本語です。
はてさて、国名の半分が日本語で、国歌も日本で教育を受けた人が書き、曲も日本で作曲された。
その中共政府が、世界で他に類例のないような反日国家であるというのは、なんとも不思議不思議なできごとですね。