夕刻の備忘録 様のブログより。
これは「宣戦布告」である。これが「宣戦布告」でないというのなら、対象が対馬の場合はどうなるのか。九州ならどうか。それでも「宣戦布告」ではないというのか。「友好国にあるまじき蛮行である」などと複雑なことを言わずに、簡単に「既に友好国ではない」と認めればいいのである。
確かに隣国との関係は重要ではあるが、揉め事の裏側では「得をする者がいる」から、それを「画策している者」がいるから、冷静に事に当たらねばならない、と自分一人だけが冷静であるかのように諭すノータリンが実に多い。誠に残念である。
「ここで両国が離反すれば、北の思う壺」である。「後ろに控えた大国が笑っている」。「その隙に、さらに北から大きな連中が襲ってくるぞ」。どれももっともらしく聞こえるが、そうしたレベルは既に超えてしまっている。むしろ、泥棒連中が徒党を組んで、一気呵成に動き出していると見る方が自然であろう。それに対抗するには、「誰かと何とか上手くやる」という話ではなく、あらゆる手立てを使って「連中の仲を裂き」ながら、一つひとつ始末していくしか他に方法はあるまい。この期に及んで「保守気取り」の空論は、邪魔なだけである。
櫻井よしこ氏 ネット右翼が偏狭な国粋主義に陥ることを危惧
「朝鮮人は出て行け」と叫ぶネット右翼(ネトウヨ)たちは、日本が古来、「開かれた国」であったことをご存じか。それこそが、「日本らしさ」である。ジャーナリストの櫻井よしこ氏は、ネトウヨは「歴史を学ぶべき」だと語る。 以下、櫻井氏の提言である。
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「ネット右翼」と呼ばれる人たちが、インターネットの掲示板で、あるいは実際のデモなどで存在感を高めています。ネットを含む新しいコミュニケーションが大きな力を持つようになり、歴史上初めて、一人ひとりの意見がその人の思惑を超えて、国を動かし、その国の政体までも変えてしまう強い力を持つ時代になりました。
しかし大きな力を持つがゆえ、そこに参加する人たちは自覚を持ち、賢明さを身につけなければなりません。ネットの熱い議論に参加する一人ひとりの成熟度が、ネットの力が日本を良い方向に向けるのか、混乱に陥れるのかの分岐点になると思います。
ネット上の書き込みを見ると、「朝鮮人は半島に帰れ」といったものや、韓国人女優をCMに起用した会社に対し、「ぶっつぶすぞ」というような排外的、過激な言葉が目立ちます。相手を誹謗中傷し、不満の捌け口にするような主張には事態を改善する力もありませんし、未熟な言論と言わざるをえません。そのような主張を展開する前に、まず大いに歴史を学び、事柄の全体像を見て、自身の言葉に説得力を与えるよう努力してほしいものです。
日本は世界でたったひとつの「日本文明」という独自の文明を持つ国です。日本文明の特徴は排外的であることとはまったく逆で、異なる文化文明に対してとても寛容なことです。一言で言えば、日本は基本的に完全に外に開かれてきた国です。
たしかに、江戸時代には鎖国をしました。けれども、判明している2700年近い歴史でみれば閉ざされていたのはわずかな期間です。鎖国を旨とした江戸時代においても完全に閉ざしたわけではありません。ほとんどの時代、日本は国を広く開き、海外の新しい文化や知識、技術、制度などを取り入れて、自分たちの生活や文化をより良いものにしてきました。
例えば聖徳太子は、仏教を受け入れました。国家が異教を受け入れるのはとても稀なことです。一方で聖徳太子は、ただ受け入れるだけでなく、「敬神の詔」を出して日本国の根本は日本古来の神道の神々にあることを明確に示しました。律令制度、つまり現在でいう官僚制度を導入して、国の統治機構を整備し、文化も宗教も取り入れ、それを日本独自のものに進化させてきたのです。
完全に開きながらも、尚、しっかりと、日本であり続ける。日本の中心部分は驚くほど堅固に守っていくのが、古来の日本のあり方です。従って、感情にまかせて単に「半島に帰れ」などと叫ぶとしたら、それは「愛国」でも「保守」でもありません。偏狭なナショナリズムや国粋主義に陥れば、必ず国際社会で孤立し、道を誤ります。ネット右翼と呼ばれる人たちには、決してそのような過ちを犯してほしくありません。
※SAPIO2012年8月22・29日号
そもそも「ネトウヨ」なる言葉そのものが、日本国内で自然発生したものではなく、相手国の工作によるものであることは確定している。少なくとも、彼等が好んで使い、広めたものであることは、例によって機関紙によって「自己紹介」してくれている。そんな言葉を論拠に、腹の底から怒れる人々に向けて、「歴史を学べ」とは、まさに彼等の主張そのままではないか。
何故、侵略を受けている側に、「何々を学べ」などと負担を強いるのか。それが自虐、それこそが自虐史観というものではないか。御当人は、自虐史観と正面から戦ってきたと自負している人物ではないのか。他人を批判する前に、自らが「自虐史観」の何たるかを学べば如何か。これでは「被害者側に転校を要求した」という、例の虐め事件と全く同じ構図ではないか。真に「学ぶべき」は、さてどちらの国民なのか、ハッキリして貰おう。
加えて、今の日本において国粋主義、ナショナリズムと書くだけで、既に充分に「偏狭なニュアンス」が込められている。その上にわざわざ「偏狭な」と二重に被せているのは、極めて悪質な言葉狩りである。
「帰るべき人間が帰るべき場所に帰れ」と叫ぶのが、何が悪いのか。「我が国領土を侵害する意志を公言する俳優を、自社の広告に使うな」という叫ぶことが、何が排外的なのか、何が過激なのか。彼等は充分冷静であり、「言論闘争の一線」を越えていない。誰もが腹の中に持っていることを、口に出しただけの話である。それを「事態を改善する力がない」だとか、「未熟な言論」だとか決め付けるほど、日本の識者の言葉には力があるのか。あれば、こんな事態にはなっていないはずではないか。
「異なる文化文明に寛容」なことと、「侵略行為」を易々と許すことは同義なのか。それが歴史を学んだ識者の言葉なのか。一体、歴史を学ぶべきはどちらなのか、ボケるのもほとほどにして頂きたい。そもそもネットで論陣を張る誰も、「愛国」だとか「保守」だとか呼ばれたいがために、日々貴重な時間を費やして戦っているのではない。「止むに止まれぬ大和魂」が、毎日の活動の源になっているのだ。
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この種の議論を展開する人々が、決定的に間違っていることは、怒りと冷静さが背反するものだと「信じ込んでいる」ことである。
怒りと冷静さは共存する。このことは既に書いてきた。全身からの怒りを表明するためには、冷静でなければならぬ。冷静でなければ、全身全霊の怒りは表せない。だからこそ、多くの日本人は、その技術を持っている。怒りながら笑う人にも、笑いながら怒る人にもなれる。あれは一人のタレントの芸でない、日本人が等しく持っている資質である。
冷静になれだ、歴史を学べだと説教される理由は何処にも無い。彼等は充分に冷静であり、充分に知識を蓄えた上で、それを「非暴力」で表現している。それをさらに封じ込めようとすれば、次は「暴力行為」へと進むだけである。「平和を訴える者が、常に戦争を呼び寄せる」ように、この種の安っぽい評論は、「暴力行為もやむなし」の気運を高めるだけである。この満腔の怒りを、何処で解消しろというのか。
敵を殲滅するには、何より冷静でなければならない。そうでなければ「見落とし」をする。だからこそ、冷静さが必要なのである。今我々日本国民に必要なことは、充分に戦うための冷静さであって、「下品な言葉を使ってはいけません!」と上から言われて、「ハイ、そうします」というよう幼稚なものではないのである。
これからも最大限の怒りを込めて、「個人的経済制裁の発動」を、周囲の人に御願いしていく。たとえ顔面は紅潮していようとも、心は氷のように冷えている。そんな時、気取った老婆が「まあ冷静に」などと言おうものなら
つまんねー事聞くなよ!
と答えるだけである。お後がよろしいようで。