皇室の陵墓。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








【イチから分かる】埋葬方法の変更へ検討開始。





明治天皇崩御百年の祭典(7月30日)や寛仁親王殿下の「斂葬(れんそう)の儀」(6月14日)などで最近注目されてきた「皇室の陵墓」。陵墓の形や埋葬、葬儀の手順はおおむね決まっていたが、天皇、皇后両陛下のご意向を受け、宮内庁は今春、両陛下の埋葬方法を変更する検討を開始。そのあり方が再考されている。(芦川雄大)




  

 皇室典範では、天皇や皇后などの墓を「陵(みささぎ)」、そのほかの皇族のものを「墓」と呼んで区別している。陵は近畿地方を中心に全国に188。宮内庁が管理しており、各地の訪問に合わせ、両陛下が陵墓を参拝されることも多い。

 天皇陵は、古くは面積約46万4千平方メートルに及ぶ前方後円墳の仁徳(にんとく)天皇陵(堺市)など巨大なものが多かったが、仏教の影響で火葬が行われるようになるなどして規模は小さくなり、平安末期以降は寺院内に葬られることが多くなった。

 江戸前期の108代・後水尾(ごみずのお)天皇から後期の121代・孝明(こうめい)天皇までは、14代連続して皇室とのゆかりが深い京都市東山区の泉涌(せんにゅう)寺に陵が造られた。泉涌寺には、多くの歴代天皇の位牌(いはい)も納められている。

 122代の明治天皇が崩御した際には、ふさわしい陵をどのようにつくるかが宮内省(当時)で検討された。天智(てんじ)天皇陵にならい、上部が丸く、下部が四角い「上円下方墳」とすることや、全体に石を並べること(葺(ふ)き石)などが決まったという。

大正15年になると、明治天皇陵の理念をベースにし、陵墓の造営やそれに伴う儀式について定めた「皇室陵墓令」が公布され、天皇陵の形状は「上円下方または円丘」、面積については2500平方メートルと明記された。皇后陵は1800平方メートルとされている。

 皇室陵墓令は戦後廃止されたが、以降も天皇陵の造営や儀式に関することが検討される際にはその内容が尊重されている。「皇室陵墓令は、陵墓に関する皇室の歴史と伝統を踏まえてまとめられたもの。法令が効力を失ってもそのことには変わりがない」(宮内庁幹部)ためだ。

 昭和天皇の陵も、皇室陵墓令を踏まえ、東京都八王子市の「武蔵陵墓地」に造られ、香淳皇后陵も同地に営まれた。その一方、儀式に使うとしている「馬車」の代わりに車を使うなど、時代に合った変更も加えられた。

 現在、孝明天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇の各命日にあたる1月30日、7月30日、12月25日、1月7日には、毎年陵所と皇居の皇霊殿で祭典が行われて敬われている。今年の7月30日は明治天皇の崩御から100年にあたったため、祭典は百年の式年祭として行われた。

 一方、皇族の墓は宮内庁によると全国に552あり、戦後はすべてが豊島岡墓地(東京都文京区)に造られている。明治6年に死産で亡くなった明治天皇の長男、稚瑞照彦尊(わかみつてるひこのみこと)が葬られて以降、皇族専用墓地として使われているもので、6月に亡くなられた寛仁さまの墓も造られる。

両陛下 国民生活への影響ご懸念


 宮内庁は4月、江戸時代初期から土葬で行われてきた天皇、皇后の埋葬方法を、「両陛下のご意向を踏まえ、火葬に変更する方向で、1年程度かけて検討する」と発表した。

 宮内庁によると、両陛下は用地面の懸念と、火葬が社会で一般化していることを合わせて考え、このようなご意向を持たれた。葬送全般についても、極力国民生活に影響しないことを希望されているという。

 宮内庁では、両陛下をご一緒に埋葬する合葬についても、「視野に入れて検討する」としている。古くは天武(てんむ)天皇(40代天皇)と、皇后の持統(じとう)天皇(41代)が合葬された例があるほか、母、子供などと合葬された複数の天皇の記録もある。深草(ふかくさ)北陵(京都市伏見区)には、鎌倉時代の後深草(ごふかくさ)天皇(89代)以降の天皇12人(北朝天皇2人を含む)が合葬されている。

 一方、皇后以外の皇族について、戦後は夫婦での合葬が一般的となっている。





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                  写真は昭和天皇の「武蔵野陵」を拝礼された天皇陛下=平成21年1月