◆夜ベランダに出て、外を眺めながら、帰りたいねえとお互いに
西岡 しかし、祐木子さんに会った時はあまり泣いてなくて、私はこのくだりが状況まで浮かんでくるようです。「平壌のアパートにいる時、夜ベランダに出て、外を眺めながら、帰りたいねえとお互いに話しました。もうあまり泣くことはありませんでした」。
アパートだから、高層なんでしょう。夜ベランダには出ることができた。そして、街の明かりをみながら、「帰りたいねえ」と話したということでしょう。
増元 曽我さんから聞いたことがあるんですが、革命戦士の墓がある烈士廟というところで、るみ子らしい女性を見て、その時は2か月くらい経っていたのではないかと言っていました。
西岡 じゃあ、78年10月くらい。
増元 指導員と一緒に見学した時、カラスが頭の上を飛んでいて、それがフンを落とすのを見ておかしく笑ったと言っていました。その頃は涙も枯れていた時期ではないかと思います。
西岡 彼らは最初は心細い思いを与えて脅し、逃げたら軍隊が追いかけると言ってあきらめさせる。それでもアベック同士は一緒にしないで、女性同士、男性同士で教育を始める。その時、お互いにパートナーは返したと言ってだます。これは蓮池さん、地村さんも同じ手法です。
増元 めぐみちゃんが拉致されて、安明進(元工作員)さんの証言によると、北朝鮮に一人で来たためか精神的に追い込まれて安定しなかった、と。また、兵本さんが言っていたことですが、その後北朝鮮の工作員が方針を変えて、「つがいで持ってこい」と。人間を「つがい」というようなひどい奴だと私は思いますが、男女でいた方が安定化する確率が高いと考えると、別々にするというのは理に合わないんです。
西岡 両方とも忠誠心があり、使えるかどうかを見て……。
増元 おそらくそうでしょう。忠誠心を試したんでしょう。そんな中で、どちらかが忠誠心が欠けていたら、またどうにかされた可能性がありますね。
西岡 1年経って、蓮池さんたちも、地村さんたちもお互いに会うということを考えると、79年10月25日に分かれた後、(るみ子さんは)市川さんに会って、次の年に結婚したというのは十分ありえる話です。
歌のことが出ていますが、ジュリーが好きだったんですか。
増元 あの頃、若い女性でジュリーが嫌いな人はあまりいなかったんじゃないでしょうか。しかし、そんなに傾倒していたとは感じていません。
西岡 「瀬戸の花嫁」は小柳ルミ子さんですね。
増元 イルカも好きでしたね。私自身も好きでした。なんか海賊の歌とか山賊の歌とかなかったですかね。よく歌っていました。
西岡 琴を習っていたと。
増元 私も姉に「さくら」を習いました。
◆あきらめた後、朝鮮語を教えられる
西岡 その後朝鮮語を教えられた。そして日記を書かされた。聞き取りをさせられたということですね。最初に朝鮮語を教えられ、その後主体思想を教えられるんですね。そういう順番です。
増元 「主体思想とある宗教団体の教えがだいたい似ていると言ったら起こられた」とあります。なぜその質問をしたかというと、北朝鮮では唯一の主体思想、唯一の首領様で、それ以外を崇拝する人間をどうするのかです。創価学会は毎朝勤行というのがあります。そういうことをやっていて北朝鮮からにらまれる可能性はないかと思ったのです。
やはり、そういう感想を持つと怒られて、自分の気持ちを抑えていったと思いますが、「他の宗教を信じることはなかった」ということですので、姉が宗教をどのように淘汰していったのか分かりませんが、姉にとっては支えだったものを失ったのかなと感じました。
西岡 食事で、朝、バター、ジャム、ハム、卵焼きにキムチが出ているのはコリアン・カルチャーだと思います。旅行で、妙香山の親善博物館というのはどんなところですか。
惠谷 これは国際親善館というところで、最初は金日成だけでしたが、別に金正日のコーナーができました。そこには、世界各国からこういう贈り物をいただい
たと、象牙細工とか色々です。だいたい第三世界のギニア・ビサウとかです。ボールペンまで大事に並ています。それを世界中から首領様が慕われている証拠として学習させるというところです。
西岡 日本の組合とか自民党の政治家からのものもあるんですね。
惠谷 日本からのものもすべてが並べられています。
西岡 信川博物館というのは。
惠谷 これは朝鮮戦争の時、信川で激戦があって、虐殺があったと北朝鮮が主張する所に博物館を作って、住民の学習に使っているところです。
◆ベンツに乗せ優越性を感じさせる
西岡 車が皆ベンツだったというのは。
惠谷 拉致被害者はある意味で非常に恵まれています。優越性を感じさせるということで、送り迎えの時は必ずベンツです。当時の北朝鮮では、ボルボもありました。中国製の紅旗もありましたが、最高級レベルはベンツです。
ベンツに乗っている人はすべて偉い人ということで、小学生等はベンツが通ると必ずすべて敬礼します。ですから厚遇されていたという一側面です。
西岡 物質的にはということですかね。
惠谷 逃げることはできないのですから、ある意味でそういうところでカバーしていたということかもしれません。
西岡 外貨ショップに行けたが、普通の外貨ショップではなく、特別にカーテンがしてあってアパートの1階の店だった、というのは。
惠谷 当時は外貨ショップもさほどなかったと思いますが、逆に幹部用があった。これは普通のアパートの1階で、カーテンをして外には見せないようにしている。ソ連時代のモスクワもそうでした。外貨ショップというのは、外貨を持っていれば誰でも行けます。その時被害者と顔を合わせるとまずいということで、こういう特別な店、党幹部が兌換券を貰って買いに行くところで買っていた。
西岡 鹿児島ではスイカの皮で漬物を作るんですか。
増元 我が家では、夏は、赤いところは食べて、削って、白い部分を漬物にしていました。
西岡 卓球がうまかったのですか。
増元 もちろん。卓球部の副キャプテンでしたから。サウスポーで背が162センチ。確か市大会で女子団体ではベスト4に入ったと思います。私もベスト4に入っていました。
◆いつ日本から助けが来るだろうかと、月を見る
西岡 「蓮池さんは日本からの救出を諦め、北朝鮮で暮らす事を考えたとおっしゃっていますが、姉にもそのような覚悟をする時があったのでしょうか」という質問ですが、私は蓮池さんに直接聞いたことがあります。「いつまで日本からの助けを待っていましたか」と。
すると、「数年間は待っていた。しかし、全然助けはこなかった。結婚して、子どもができて、自分の一生はこの家族を守るためにあるんだと思った」、「帰れるという希望を持ってしまうとかえって辛くなる」、と。
「横田めぐみさんは、『帰りたい、帰りたい』とずっと言っていたので、そういう希望を持つと精神が不安定になるよとアドバイスしたんですよ」ということを聞いていました。
祐木子さんの手紙の中で、「夜月を見ると、日本に帰りたいなあと心の中で思っていました」とあります。曽我ひとみさんは、「月や星を見ると、佐渡でも同じ月や星が見えているだろうなあ。いつ日本から助けが来るだろうか、とずっと思っていました」と言っています。やはり月を見るんですね。
増元 そうですね。ただ、蓮池薫さんは男ですからそういう覚悟もしなければいけなかったでしょうが、曽我さんはずっと助けが来てくれると思って、月を見ては日本を懐かしんだと言っていましたので、姉はどうだったのかなと思ってこういう質問をしました。
西岡 別れるときは、前日に突然、荷物をまとめろと言われる、これもひどいですね。
増元 ひどいと思いますよ。本当に不安でしょうね。1年間一緒に暮らしていた女性と突然自分だけが移動させられるというのは、その後の自分の身に起きることを想像すると怖いでしょう。そんな恐怖を2回も与えられているということ自体、それは絶対に許せないですね。金正日もそうですが、北朝鮮のこうした組織というか政権は、私の姉に何ということをしたんだと思います。
私はできれば、(招待所の)おばさんなんかは許してあげたいと思いますが、政府関係者、特に工作員関係者は絶対に許せないし、断罪すべきだと思います。
西岡 この手紙をお母さんにも見てもらったんですか。
増元 兄に送りました。兄が母に見せるかどうかは兄に判断を委ねました。見せたかどうかはまだ聞いていません。この手紙を見て、私でさえ悲しい、ズシンとくるものがあって、84歳のお袋が耐えられるかなと思ったものですから。
西岡 お姉さんのフミ子さんはどう言っていましたか。
増元 姉もずっと仕事でいなかったものですから、先日読んだようです。今日この手紙を書いてくれましたが、これでは(祐木子さんの手紙には)まだ触れていませんね。電話でも、「指宿に行くようなことがあったっけ」というような事務的な確認しかしていなくて、あれはひどい、これはひどいというような感想を言い合うようなことはしていません。
しかし、私でさえショックを受けたわけですから、ショックを受けると思いますよ。
◆一人ひとりの人生が滅茶苦茶にされている
西岡 これまで拉致問題というと、外交の問題だったり、国際政治の問題だったり、あるいは犯罪・テロだと私たちは言ってきましたが、一人ひとりの人生が滅茶苦茶にされているわけですよね。
横田めぐみさんの場合は少し情報があって、めぐみさんがどういう目にあったかは分かっているのですが、こうして増元るみ子さんが40時間かけて連れていかれた後、1年間どういう暮らしをしていたのか分かってきたということは、より拉致問題の残酷さ、ひどさを私たちに教えてくれることになりました。
こういう人を未だに取戻せすことができない。北が増元さん拉致を認めて10年経っても、まだ取戻すことができない。重たいことだと思います。
増元 ほんとうに祐木子さんには感謝をしたいと思います。これが原文なんですが、非常に丁寧な字で分かりやすく書いていただいています。非常に心をこめて書いていただいたものと思いますし、北朝鮮にいる時の姉の様子というのが本当によく分かりました。
私は日本にいる時の姉しか知らなかったのですが、30年の空白が少しだけ埋まったと思います。しかし、常に恐怖の中でしか生きていけない状況を、日本の方たちに分かっていただきたいんです。
どれだけ恐怖を我慢してきたのか。私は拉致問題が公になった時、ある作家が、「北朝鮮に連れていかれた人も、向こうでは向こうの生活があるから、日本に連れ戻すのは帰っておかしいんじゃないか」と言いましたが、この話を聞いても今でもそう言えるのかと。残念ながらその方は亡くなりましたが。
そういうことを考える人たちが日本にまだいらっしゃると思います。残念ながら。こういう方たちをなぜ放っておくのかと考えていただきたいですね。
◆救う会が得た増元さん、市川さん情報
西岡 手紙のことについては以上にして次に行きたいと思います。祐木子さんと分かれた後、るみ子さんがどのような状態だったのかということに関して、救う会でも様々な情報活動をしています。
今日、お話できることが一つだけあるので持ってきました。「市川修一・増元るみ子さん情報」という資料を配布しています。
先ほども少し言いましたが、北朝鮮は、市川さんと増元さんについて、「1979年7月に結婚した」。そして、市川さんは、「79年9月4日に、元山の海水浴場で泳いでいる時に心臓麻痺で死んだ」と。増元さんは、「81年8月17日に心臓麻痺で死んだ」と言っているわけです。
市川さんについては、元工作員安明進が、2002年以前から「1988年から1992年まで何回も目撃した」と言っていますし、増元るみ子さんについても、2002年以後に、公開の席で「似た人を見た」と言っています。
安明進さんに詳しく聞くと、「市川さんは話をしたから自信があった。横田めぐみさんは、一番かわいかったし何回も見ているので自信があった。それ以外の日本人については、関心がなかったのであまり覚えていない」と。ただ、日本の警察は1997年、98年の段階で、「増元るみ子さんに似た人を見たという証
言はしたが、家族には自信がなかったので言えなかった」と言っています。
るみ子さんの写真はサングラスをしたデートに行った時の写真しか出ていなかったので、全身の写真等を見て、安さんは「似ている人がいた」と言って、「92年1月20日まで目撃した」と言っていました。
救う会は、2008年に、ある情報を入手しました。これは、ここにも何回か来てもらった自由北朝鮮放送の金聖●(キム・ソンミン、●は王へんに文)さんに、2006年8月に中国から電話がかかっていきた。「自分は脱北者だ。日本人拉致被害者を直接扱った。詳しいことは電話では言わない。まず先にお金を送っ
てくれ、助けてくれ。そしたらしゃべる」と言ったんだそうです。
そこで金聖●氏が、「北で具体的に何をしてたのか。日本人をどこで見たのか教えてくれ、そしたら助けてやる方法もある」と言ったら、その後連絡がなかった。
その後、向こうからまた連絡があって、「FAXを送ったのになぜ返事しないのか」と言われたがFAXは来ていなかった。「もう1回FAXを送れ」と言ったら、「分かった」と言って、2008年の7月末か8月初め頃にFAXが来た
それは実際は3ページのものですが、1ページしかきていなかった、ということでした。
その後また連絡が来なかった。当時、私も(対北)ラジオで、「拉致被害者に関する情報をくれたら報奨金を出します」と言っていたので、ガセネタが自由北朝鮮放送にも来ていたので、それかなあと思っていたようです。
そしたら、同じ年の8月に、「拉致に関する情報を知っている北朝鮮の幹部が中国に逃げて、北の作戦部が探しに着ている」という情報を私が入手して、それを確認するプロセスでその男に会えないか等色々やったのですが、その男が出したと思われるFAXの原文、紙3枚を中国で別途入手し、金聖●さんが持っているのと比べてみたら、1枚目が全く同じものでした。
従って、中国に、工作機関の幹部で、拉致のことを知っている人が逃げていることは間違いないということで、色々と探してみたんですが、その人は消えてしまった。その人と連絡がつくのであれば、この情報を外に出さないんですが、捕まったのか、あるいは逃げ切ったのか分からず、韓国には入っていないというこ
とでした。
それで、次の年の2009年3月の、家族会・救う会の合同会議の時に、「こういう情報があります。しかし、確実ではない」という前提で公開しました。メールニュースにも書きました。
その中の市川修一さんと増元るみ子さんに関する部分が(配布資料の)「情報源A」です。
その情報では、「市川修一さんの朝鮮名はキム・チュンヒ、増元るみ子さんの朝鮮名はソ・ジョンオク」で、北が発表した名前とは違います。
増元 姉は、ホ・ジョンシルという発表でした。
西岡 2人の担当指導員はチョン・チルファン。そして、1979年2月から1981年4月まで平壌市順安区域招待所で生活。
増元 蓮池祐木子さんと、79年10月25日まで一緒でしたが、正月あけてから順安招待所に移ったということですから、合いますね。
西岡 「1981年4月まで平壌市順安区域招待所で生活」とありますが、二人が別れた後、別の順安招待所に行った可能性もあります。そして、「1980年7月頃、鄭チルファン指導員の保証下で結婚が承認」されています。さらに、「1982年から1986年頃まで平壌市兄弟山(ヒョンジェサン)区域2級招待所で生活、当時市川さんは平壌市兄弟山区域に位置する金正日政治軍事大学で統一戦線部所属の工作員に日本語を教え」ていた。この兄弟山区域というのはどういうところですか。
惠谷 金正日政治軍事大学があるのは、龍城(リョンソン)区域ですが、その西側が兄弟山区域です。分校が分散していますから、兄弟山区域にもあるのかなと思います。
◆96年まで統一戦線部所属の工作員に日本語を教えた市川修一さん
西岡 ここで、「統一戦線部所属の工作員に日本語を教える」となっています。普通、統一戦線部の工作員は、金正日政治軍事大学では学びませんよね。
惠谷 いや、特別課程で学ぶことはあります。
西岡 そして、「1986年から1996年まで平壌市牡丹峰(モランボン)区域日本人専用招待所で生活しながら金正日政治軍事大学と平壌市龍城区域龍秋(リョンチュ)3洞に位置する工作員招待所で日本語講師として活動」ということですが、このことについてはどうですか。
惠谷 これは密封教育と言いますか、招待所の工作員と教師が、個人教授をするということです。
西岡 金賢姫と田口八重子さんみたいなものですね。
惠谷 はい。二人でやるシステムが垣間見えます。
西岡 こういう未確認の朝鮮語のFAXが私の手元にありました。その後、様々な情報活動をする中で、二つの別々の情報を入手しました。「情報源B」は、「市川さんは1996年まで労働党中央委員会直属政治学校(金正日政治軍事大学)から龍城地区の招待所に日本語を教えに行く講師だった。一番長く、地区の講師をしていた」ということです。
この直属政治学校と金正日政治軍事大学の関係についてはどうですか。
惠谷 金正日政治軍事大学の前の名称が直属政治学校(80年代から1992年1月25日まで)です。
西岡 元工作員が亡命した時期によって、直属政治学校という人もいるし、最近なら金正日政治軍事大学という人もいます。この「情報源B」は「情報源A」の、「金正日政治軍事大学と平壌市龍城区域に日本語を教えにいく」ということとぴったり合うんですね。
惠谷 これで情報がクロスしますね。
西岡 そして「情報源C」は、「金正日政治軍事大学で1983年から1期のみ統一戦線部所属学生の3年制の教育がなされた。100人入学して終了後50人が工作員となった」、「1983年から86年に現役工作員が2から4カ月の短期研修のため金正日政治軍事大学にくることがあり、そのとき、講師として日本人が使われた。市川さんに似た男もその中にいた」と言っています。
この「情報源C」は、元工作員の脱北者で、今韓国にいる人ですが、非公開の人です。この人に私が直接会って聞いたんですが、その時私がちょっと思い出したんです。安明進さんも似たようなことを言っていたな、と。
私のファイルを見たら、安明進さんも、「1981年から82年まで統一戦線部武装宣伝隊教育生160人が金正日政治軍事大学で教育された。後に695病院になる建物を宿舎とした」。人数が少し違いますが。その時安明進さんはこう言っていました。
◆韓国の光州事件を見て、金正日が潜入部隊を作り教育
「金正日政治軍事大学は作戦部の戦闘員要請で、作戦部の人間は統一戦線部を下に見ている。統一戦線部は非合法活動をする部署ではなく、半合法活動をする部署で、お前らは本当の工作員にはなれないと、しゅっ中学内で喧嘩をしていた」そうです。
この「1981年から82年まで」というのと、「1983年から」も時期がちょっと違います。安明進さんの話によると、「80年5月に、韓国で光州事件が起きた。全斗煥将軍が政権をとるために、光州で起きた学生のデモを鎮圧するために軍隊を派遣して軍と学生が撃ち合いになった。その時、金正日が大変残念がた。送る部隊がなかった、と。半合法活動をする、そして武装活動もできるような南に派遣できる部隊が、統一戦線部になかった。何かスキャンダルがあって、解散したという話もあった。それで、もう一度光州事件のような事態が起きた時、南の人間になりすまして行けるような部隊、デモ隊に紛れ込んで、煽動し
て、銃も撃つような部隊を作りたいということで、特別コースとして金正日政治軍事大学に統一戦線部を入れた」ということです。
「情報源A」でも、「1982年から1986年頃まで金正日政治軍事大学で日本語を教えていた」とあります。人間の記憶違いということはありますが、筋は同じで、「情報源C」と安明進さんの証言と「情報源A」が一致しますので、FAXで来た情報で、誰が書いたか分からないものですが、あまりにも詳しすぎて、本
当かなあと逆に思ったんですが、「情報源A」の中の2つの情報が、別々の所から入手できた2つの情報とクロスチェックできたということは、かなり信憑性が高いと思います。
◆96年までは、市川さん、増元さん生存が確認できた
となると、96年まで、確実に市川さんが生きていらしたことになります。増元るみ子さんと結婚しているわけですから、増元さんも生きていらしたと言えるし、蓮池さんたちや地村さんたちと同じ時期に同じ招待所にはいませんでしたが、「一緒にはいなかった」と彼らが言っていることとも矛盾しないと思います。
これがるみ子さんについて今日我々が提供できる調査結果で、市川さんにはお電話をして、こういうことを今日発表しますとお伝えし、喜んでいただくことができました。
増元 1996年まで生存という情報はありますが、政府も一応情報を持っているわけです。しかし、増元るみ子のことに関しては、ほとんどないと言っていました。横田めぐみさんと田口八重子さんはいっぱいあるのですが、私のところは、「ない」と言われるのです。
こうやって、政府が取り入っていけないところを民間がカバーしているということを考えますと、政府の情報源って何なんだ、政府の情報網って何なんだ、政府が情報を集めているというのは何なんだ、お金が余るのは当り前じゃないか、と私は思ってしまいます。
とにかくこの10年、何もしてこなかったというのがあると思います。今の担当者もこの2年で、情報をしっかりと確立できるようになったと言っていましたが、10年前から政府に警察官僚がいたわけでしょう。何をやっていたんだということになります。本当にこの拉致問題を真剣に考え、10年間なにもできなくて、今ようやくできましたと言ってもしょうがないでしょう。
もっと早くやれ、と私は思いましたけどね。
◆この3、4年、本物の情報がたくさん出てくるようになった
西岡 私は政府を代弁するわけではないですが、本物の情報がたくさん出てくる
ようになったのはこの3、4年なんです。
増元 その情報を集める努力が足りないということです。政府の外務大臣にも、総理大臣にも、「情報を集めてほしい」とずっと言ってきました。中朝国境には20万人の難民がいるという状況がずっと続いています。あの当時でも、難民を使って情報を取りやすくなるという話もあったし、実際出入りしていた人もいっぱいいるわけですから、そこに行って情報を取ろうとしていたかどうか、取ろうとしていなかったんです。
今現在、それがいくらか進んでいるのは確かでしょうが、10年ですよ。この10年の間に、何人家族が亡くなりましたか。何人待ちきれずにいってしまいましたか。その責任は誰が取るんですか、ということをもっと真剣に考えてもらいたいというのが私の思いです。
文句ばかり言っているようですが、悲しいんですよ、日本のこのような状況が。残念でならないんです。
西岡 民間がカバーしている、というのはちょっと言い過ぎで、私は情報源は共有しませんが、情報は救出のために役立ててほしいので、然るべきところにはお伝えしたいというのが救う会の姿勢です。
然るべきところは情報をくれませんが、情報というのはそういうものだと思っています。ただ、出先でバッティングすることはあります。お互いに情報源は明かさないですが、こういうことについて全部分かっていないということではないと思います。
もう一つ、私は一番最近のことは公開しません。あるかないかも言わないのが原則で、今どこにいるかということが分かったということが北朝鮮に分かってしまったら、移動させられます。こちらが何を持っているかを言わないというのも一つの情報戦です。
もう一つは、今つながっている線については言わない。そのことを言ったら、情報提供者が殺されてしまう。
第三者からもらった情報も言えない。自分で取った情報は自分で自由に使えますが、第三者からもらった情報は、もらうということだけでも大変なことなのに、それを自由に使うことはできないというのも原則です。
◆「隠しても隠し切れないぞ」と北朝鮮に言いたい
かなり様々な情報が出てきていることは間違いなく、北朝鮮にはっきり言いたいんですが、「隠しても隠し切れないぞ」と。「こちらを甘く見るな」と。「あなたたちの政治警察が平壌市民210万人のリストを売りに出したくらい腐敗しているんだ」と。「どんどん、どんどん、真実の情報が海外に売りに出てるぞ」と。「それを買えないような日本ではないそ」ということを強く伝えたい。
また、祐木子さんの手紙にも、「病気になった時、医者が来た」とありましたが、「最新の医療をまずやってもらわなければならない。傷つけたり、病気になって死なせたりするようなことがあったら、それは許せない」ということを強く言いたいですし、逆に、「被害者救出に役立つような情報を送ってくれた人に対し
ては、報奨金を政府が出すでしょうし、出さなければ民間がカンパを集めても出します。身柄の安全も最大限守ろうと思います」、「被害者を傷つけるようなことをした人がいれば、イスラエルがナチスドイツの残党を時効なしで探しているように、日本もそれと同じ事をする」、ということを私は北朝鮮向けの短波ラジ
オでずっと言っています。
増元さんもラジオでそんなことを言っていますよね。緊張感を持って助けていかなくてはと思っています。
◆めぐみちゃんも、地村さんも、未遂事件も辛光洙がやった
惠谷 これだけの情報が集まるというのはすごいことだなあと思います。すべてが正しいかどうか分かりませんが、(市川修一さんが)統一戦線部の日本語教師だったというのは間違いないと思います。
一つ付け加えると、辛光洙(シン・ガンス)という男のことはご存知だと思います。この男が、「めぐみちゃんは俺がやったんだ」と言ったようです。しかし、「俺がやった」というのは、格好をつけているだけかもしれません。証拠はありません。
辛光洙は、金正日が党3号庁舎というか、拉致工作機関を検閲して、工作員を全部召還します。そうして、「こいつは使える、こいつはダメだ、飛ばせ」という作業をしましたが、辛光洙は優秀で生き残ります。
1976年に、日本から工作船で帰り、後に韓国で捕まりますが、その時の自供では、76年に帰国後、様々な教育を受け、80年4月にまた日本に潜入します。それまでは平壌にいたということになっています。そうすると、めぐみちゃんの拉致をやったかどうか分からない。
ところが78年7月7日の地村さん拉致の時は、地村さんは「見た」と言っています。8月15日に未遂事件が起きますが、当時この事件を報じた「週刊朝日」の記者が、実名を公表していませんが、未遂事件のカップルに辛光洙の写真を見せたそうです。「あ、これは記憶にあります」と証言しています。
私は、当時辛光洙は日本にいなかったので、未遂事件は辛光洙ではないと書いたことがあるんですが、めぐみちゃんのこと、地村さんのことを考えると、辛光洙が出たり、入ったり平気でしていた。しかし、そういうことは韓国の取調べでは一言も言わずに、「3年半、平壌で密封教育を受けていた」と。
初めは気合が入っているなと思っていたんですが、とんでもなくて、黙っていただけなんです。私は今は、めぐみちゃんも、地村さんも、未遂事件も辛光洙がやったと思っています。だから英雄にもなったのかなと思います。
西岡 その「週刊朝日」は、辛光洙が捕まった時です。1985年でした。
以上
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