小野篁、遣唐使船に乗船拒否。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 










【決断の日本史】838年6月22日





「冥界の裁判官」像ができたわけ


 お盆になると、「六道(ろくどう)さん」こと六道珍皇寺(ちんこうじ)(京都市東山区)への参詣を思い出す。迎え鐘をついて祖先の霊を迎え、経木(きょうぎ)に戒名を書き回向する。そんな人々の群れを、閻魔堂(えんまどう)に安置された小野篁(おののたかむら)(802~52年)の木像が見守る。

 篁は平安初期の貴族。学芸に秀でて嵯峨天皇からかわいがられた。その一方で、彼には「昼間は朝廷に、夜は閻魔庁に仕えた」という奇怪な伝説が残る。

 承和(じょうわ)元(834)年、篁は30年ぶりに計画された遣唐使の副使に任じられる。祖先の遣隋使・小野妹子の栄光を取り戻すチャンスだった。しかし4年後の承和5(838)年6月22日、朝廷に「篁は病で遣唐使船に乗れなかった」との報告がもたらされた。

 しばらくして病気は事実でなく、上司の遣唐大使・藤原常嗣(つねつぐ)との諍(いさか)いが原因と判明した。承和の遣唐使は苦難を強いられていた。出航したものの嵐に遭って吹き戻される事態を2度、繰り返した。常嗣は自分の乗る大使船では渡航を果たせないと、篁の副使船を取り上げた。篁の乗船拒否は、これに対する抗議だったのである。
理由はどうあれ、朝命を拒むことは許されない。嵯峨上皇も激怒し同年12月、隠岐国への配流が決まった。許され都に戻ったのは承和7(840)年2月。勤務ぶりを評価され承和14(847)年には参議に列している。

 「平安朝の人々にとって、あの世とこの世を行き来し、亡き親族と再会するのは夢でした。権力に逆らって死罪となるところが罪一等を許され、配流先から戻り、政界で『再生』した篁は民衆の憧れでした。篁が刑部大輔(ぎょうぶだいゆう)という裁判の最高官に就任したことも“冥界(めいかい)の裁判官”像の形成に役立ったのかもしれません」

 平安京に詳しい中村修也・文教大学教授は、こう推測する。


                                      (渡部裕明)