両陛下、秋篠宮家でご昼食。
愛子さまの発音は「ネイティブ」のよう。
今回の「皇室ウイークリー」は、今週の皇室の方々のご動静に加え、五輪のため休載していた7月21日以降の主なご動静を交えてお伝えしたい。
天皇、皇后両陛下は12日、富岡八幡宮(東京都江東区)を訪れ、昭和20年3月10日の東京大空襲を経験した戦争体験者らと懇談された。
両陛下は常々、戦争で被害を受けた人々に思いを寄せ、節目の時期に平和への祈りをささげてこられた。戦後50年にあたる平成7年には広島、長崎、沖縄、東京を訪れる「慰霊の旅」を行い、戦後60年にあたる17年にはサイパン島をご訪問。戦没者の慰霊をされた。両陛下は広島、長崎に原爆が投下された8月6日と9日には、それぞれ原爆が投下された時間に合わせ黙祷を捧げられている。
富岡八幡宮での懇談に参加したのはいずれも江東区在住で、東京大空襲を経験した早川幸男さん(83)、石井清子さん(80)、宍戸芳子さん(86)の3人。
3人と対面した陛下は「おいくつぐらいのときに?」と声をかけられた。早川さんは16歳のときに被災。焼夷弾から逃れるために、まだ寒い3月に堀の水の中に飛び込んで九死に一生を得た。早川さんが「まさに地獄のようなものすごい一日でした」と振り返ると、陛下は「一緒に逃げた方は無事でしたか?」と尋ね、早川さんは「家族はバラバラに逃げたんですが、おかげさまで無事でした」と答えた。
石井さんは当時小学校6年生で学童疎開をしていたが、中学受験のために東京に戻ってきたところ、空襲にあった。陛下は「本当に大変でしたね」と慰められ、石井さんは「おかげさまでドラマティックな人生です」と気丈に答えた。
今回の最年長の宍戸さんは20歳のときに被災。障害のある姉を背負って逃げたが、雨のように降る焼夷弾から逃げるのをあきらめ、「死ぬのなら自分の家で死にたい」と自宅に引き返した。そのことが幸いして生き延びることができたと振り返った。陛下は「そのときの逃げる道によってね」と安堵した様子で声をかけられた。疎開経験がある皇后さまは「その後、おうちは?どこかに疎開なさったの?」と尋ねられ、宍戸さんは「家族はみんなたくましく生きました」と答えた。
同席していた山崎孝明・江東区長は当時1歳。母親から、背中におぶって逃げたことを聞かされていたという。「お母様は?」と尋ねた皇后さまに、山崎区長が「おかげさまで米寿になります」と答えると、両陛下は笑顔を見せられた。
陛下は3人と懇談した後、「そうした経験を伝えていくことが大切ですね」と話された。短歌が趣味という宍戸さんは、以前に賞をもらった短歌を入れた額縁を持参。陛下がご覧になる機会はなかったが、『永らへて伝える役目我にあり 三月十日の修羅場生き延びて』という内容だった。宍戸さんは「両陛下の優しいお姿を拝見できて、生きてて良かったと感激しています。陛下がおっしゃっていたようにこの体験を伝えていきたい」と涙ながらに話した。
両陛下は、この日開催されていた江戸三大祭りの一つ「深川八幡祭り」のみこしもご覧になった。通常は3年に1度だが、昨年は東日本大震災の影響で開催されなかったため、4年ぶりの開催に。両陛下がこうしたお祭りをご覧になるのは珍しく、永代通り沿いに設けられたやぐらに姿を現すと、盛り上がりは最高潮になった。
担ぎ手たちは「わっしょいわっしょい」と大声でみこしを担いでやぐらの前にやってきたところで、「もめもめ」「させさせ」と掛け声をかけながらみこしを上下に揺らした。両陛下が笑顔で手を振られると、拍手とともに大きな歓声が上がった。立ち去られる際には「天皇陛下万歳」という声が響き渡った。
両陛下は16日、赤坂御用地の秋篠宮邸と三笠宮邸を訪問された。昼ごろ秋篠宮邸に到着し、約2時間にわたって秋篠宮妃紀子さま、長男の悠仁さまたちと昼食を取られた。秋篠宮さまはこの日、ベトナム訪問のため、成田空港から出発しておりご不在だった。秋篠宮さまはニワトリなどの家禽や家畜についての調査研究に参加し、23日に帰国される。
続いて両陛下は三笠宮邸に移り、三笠宮妃百合子さまと約30分間過ごされた。宮内庁によると、両陛下は、聖路加国際病院(東京都中央区)に入院されている三笠宮さまをずっと気にかけ、7月31日に集中治療室(ICU)から一般病棟に移ってからは病室を見舞うことを希望していたが、リハビリ中でもあるため、宮邸でお見舞いの気持ちを伝えることにされたという。
皇太子ご一家は12日から17日にかけ、須崎御用邸(静岡県下田市)で静養された。宮内庁東宮職によると、滞在中はご一家で海水浴をしたり、水中めがねで魚を見たりされた。海に向かう際にはマウンテンバイクを使われた。
7日から10日にかけては今年も学習院女子大学で、ネイティブスピーカーらから指導を受け、議論やクイズをするイングリッシュセミナーに参加された。関係者によると、長時間に及ぶ日もあったが、各日、皇太子さまや雅子さまが付き添われた。愛子さまはネイティブのような上手な発音をされていたという。
また、2日にも同大学で工作、料理などの体験型ワークショップに参加された。
秋篠宮ご夫妻と悠仁さまは13日、サントリー美術館(東京都港区)で、展覧会「来て、見て、感じて、驚いちゃって!おもしろびじゅつワンダーランド展」を鑑賞された。
同展はデジタル技術を駆使して、国宝などの美術作品を体験しながら楽しめる展覧会で、漆工芸の国宝「浮線綾螺鈿蒔絵手箱」の箱の中をイメージしたプラネタリウムなどを展示している。
悠仁さまは、昔の武蔵野の森を描いたびょうぶ「武蔵野図屏風」を再現したススキ林のアプローチを秋篠宮さまと手をつないで歩かれた。ススキの複製に触れ、珍しそうにご覧になった。秋篠宮さまと紀子さまは絵の前で、腰をかがめて悠仁さまに絵の説明をされていた。
続いて悠仁さまは江戸時代の京都の街並みを描いたびょうぶ「洛中洛外図屏風」の絵を拡大して見れるタッチパネルをご覧になった。祇園祭や二条城などの様子が描かれたタッチパネルに何度も手を触れ、大きく表示された絵や文字を興味津々の様子でご覧になった。
秋篠宮さまは「ゆうゆうここ押してみて」「これはどこだろう」などと話しかけられ、悠仁さまは、古代の天皇の住まいの「内裏(だいり)」という文字が表示されると、「内裏って何?」などと質問されていた。
悠仁さまは背伸びをしてタッチパネルの上の部分をさわろうとされたため、美術館のスタッフが台を用意。秋篠宮さまが抱きかかえて乗せようとしたが、台を動かして場所を調整しながら自分で上り、タッチパネルに触れられていた。
寛仁親王殿下が6月6日に亡くなられてから50日目にあたる7月25日、「墓所五十日祭の儀」が東京都文京区の豊島岡墓地で営まれた。皇太子ご夫妻や寛仁さまの母親の三笠宮妃百合子さま、喪主の長女、彬子さまをはじめとする皇族方が拝礼された。
明治天皇が崩御してから100年の節目を迎えた7月30日には、明治天皇を祭神とする明治神宮(東京都渋谷区)で、生涯をしのぶ「明治天皇百年祭」が開催され、神社関係者ら数百人が参列した。両陛下と皇太子さまは百年祭に先立つ7月18日に明治神宮を参拝され、皇族方も前後に参拝や記念式典出席のために明治神宮を訪問された。
皇居・皇霊殿では30日に「明治天皇百年式年祭の儀」が行われ、両陛下と皇太子さま、秋篠宮ご夫妻、長女の眞子さま、常陸宮ご夫妻、高円宮妃久子さま、長女の承子さま、次女の典子さまが臨まれた。
各宮家は7月下旬から8月中旬にかけてさまざまな公務を果たされた。
秋篠宮家は地方へのご訪問が相次いだ。秋篠宮さまと眞子さまは7月24日、静岡県で開催された「第46回全日本高校馬術競技大会」に出席された。
秋篠宮ご夫妻と眞子さまは8月4~5日、滋賀県を訪問し、5日に開かれた「第11回日本アグーナリー(国際障がいスカウトキャンプ大会)」に出席された。7~9日にはご夫妻と次女の佳子さまが富山県を訪れ、8日に全国高校総合文化祭の開会式に臨まれた。
常陸宮ご夫妻は3日午前、ホテルオークラ東京(東京都港区)で開かれた東日本大震災チャリティーイベント「“アートで心をつなぐ”第18回秘蔵の名品アートコレクション展 東京美術学校から東京芸術大学へ 日本絵画の巨匠たち」のオープニングセレモニーと内覧会に出席された。午後には上野の森美術館(台東区)で開かれた「エジプト考古学博物館所蔵ツタンカーメン展~黄金の秘宝と少年王の真実」の内覧会に出席された。
寛仁親王家の次女、瑶子さまは7月31日、日本武道館で開かれた「第47回全日本少年剣道錬成大会」に出席された。瑶子さまは寛仁さまが亡くなってから喪に服していたため、約2カ月ぶりに公務に復帰された。
高円宮妃久子さまは7月26、27日、「第43回全国ママさんバレーボール大会」の観戦と表彰式出席のため、三重県を訪問された。8月4日には「第36回全日本少年サッカー大会」のため静岡県を訪問し、5日は「高円宮賜牌第45回全国高等学校アーチェリー選手権大会」のため、新潟県を訪問された。
那須塩原駅を出発される天皇、皇后両陛下=23日午後、栃木県那須塩原市(古厩正樹撮影)
全国戦没者追悼式で黙祷される天皇、皇后両陛下
=15日正午、東京都千代田区の日本武道館(古厩正樹撮影)
秋篠宮ご夫妻と「おもしろびじゅつワンダーランド展」を訪れ、タッチパネルに触れられる悠仁さま
=13日午前、東京都港区(代表撮影)
須崎御用邸で静養のため、伊豆急下田駅に到着された皇太子ご一家
=12日午後4時19分、静岡県下田市(代表撮影)