【決断の日本史】572年5月15日
朝廷の外交を支えた書記官
敏達(びだつ)天皇元(572)年の5月15日、天皇は朝鮮・高句麗からの使節が持参した国書(上表文)を大臣の蘇我馬子に授け、お抱えの書記官に読み解くよう命じた。しかし3日たっても、だれも解読できない。
国書はカラスの羽に墨で書かれていた。書記官の一人、王辰爾(おうしんじ)は羽に湯気を当てて墨を浮かせ、絹布に転写するという機転を利かせて解読に成功した。天皇は辰爾を大いにほめた。
有名な「烏羽(うば)の表(ひょう)」のエピソードである。辰爾は百済系の渡来人で、その孫にあたる船王後(ふねのおうご)の墓誌(死者の系譜や業績を記した銅板)が江戸時代に大阪府柏原市から発見されている。
「“烏羽の表”の内容は史実ではないでしょう。国書をカラスの羽に書くことなどあり得ません。辰爾があらゆる漢文に通じた人物で、朝廷の外交はこんな優秀な書記官に支えられていたとの主張だと思います」
『東アジアの日本書紀』(吉川弘文館)の近著がある遠藤慶太・皇學館大学史料編纂(へんさん)所准教授は言う。
辰爾はこれより前の欽明天皇14(553)年7月、蘇我稲目(いなめ)(馬子の父)の命で船の税を記録し、「船史(ふねのふひと)」の姓を賜(たまわ)ったとされている。
辰爾が活躍した6世紀後半は、朝鮮半島南西部にあった百済が北部の高句麗や南東部の新羅から圧迫を受け、日本(倭国)に軍事支援を求めていた時期だった。辰爾らが朝廷に仕えたのは、日本の支援に対する百済側の「見返り」という意味も大きかった。
船氏の一族は外交などの専門家として日本の国家形成に貢献した。皇極天皇4(645)年6月、「乙巳(いっし)の変」で蘇我本宗家(ほんそうけ)が滅んだおり、船史恵尺(えさか)が『国記(こっき)』を炎の中から救出したことはよく知られる。書記官として、貴重な記録が灰になることだけは、見過ごせなかったのである。
(渡部裕明)