【正論】精神科医、国際医療福祉大学教授・和田秀樹
■まずは校内犯罪の撲滅に動け
大津市の中学生の自殺は、いじめの果ての事件として、マスコミや世間を驚かせている。ただ、精神科医の立場としては、今回の悲劇をいじめ自殺事件と騒ぎ立てることには抵抗がある。
≪いじめ自殺と捉えるは誤り≫
一つには、報道が自殺を誘発するという問題がある。被暗示性が強い青少年にはその影響が強い。「いじめられて自殺するのは当たり前の心理」「死ねば分かってもらえる」という誤ったメッセージを伝えて、子供の自殺を大幅に増やしかねないからだ。
現実に、東京都中野区の中学生自殺事件が大報道された昭和61年には、小中学生の自殺は前年より5割以上も多くなり、報道が静まった翌年には60年以下の水準に戻った。愛知県の中学生自殺事件が起きた平成6年には、前年より8割も自殺が増えている。
だが、それ以上に問題なのは、中野、愛知、そして大津の事件はいずれも、いじめではなく立派な校内犯罪だという点である。逆にいうと、大々的報道による誘発でもない限り、犯罪の領域に達していない「いじめ」では、子供の自殺にまではまず至らないとさえいえるのではないか。
私も以前、テレビ番組に出演した際に、少女が受けたいじめの内容が集団レイプだったと聞いて戦慄したことがある。いじめなどという言葉を用いて、校内犯罪を、冷やかしや仲間外れなどと同列に扱うことは、教育上もあってはならないのである。
いじめを幅広く取ることで、教育現場にも子供たちにも混乱が生じていることは確かだろう。犯罪を除く狭義のいじめについては、それでも子供のトラウマになり得るから撲滅すべきだという意見もある。一方で、子供が、人前や仲間内で言ってはいけないことを言い、やってはいけないことをやった際に仲間外れにされたりし、それに懲りて社会性を身につけるという人もいる。実社会に出てからも、仲間外れや悪口は珍しいことではないので、子供のうちに耐性や対処法を身につけさせるべきだという考えもある。
≪勉学の場守るため警察介入も≫
どれが正解か精神科医の私にも断言できないし、状況次第で違ってくるということもあるだろう。だが、犯罪性のあるいじめを放置すべきでないという点に異論を挟む人は少ないだろう。
捨て置かないことによる教育的効果もある。子供であっても、人にけがをさせれば傷害事件(現在の考え方では、精神的な後遺症も含まれる)であるし、カネを巻き上げれば恐喝事件である。ストーカーのような付きまとい行為も十分、犯罪に相当する。
こういう被害に遭ったら、警察に、あるいは教師を通し警察に訴え出るべきだと教えるのは、立派な法律教育となる。逆に、校内で犯罪的な行為が見過ごされると、大人になって暴力団絡みの犯罪などに泣き寝入りする習性を植え付けてしまいかねない。
いじめられたら逃げた方がいいといった議論も少なくない。だが、犯罪者並みの加害児童・生徒が堂々と学校に通い、被害児童・生徒が学校から排除されるのはどう考えてもおかしい。警察により犯罪被害から守られるのは国民固有の権利である。民事不介入などとして、警察が取り締まらなかった時期に暴力団が勢力を拡大させたのは歴史的事実である。
学校では真面目に勉強する子供の権利が守られるというのは、世界中のコンセンサスである。そうした考え方に基づき、米国で、学校での犯罪的な行為に対する警察の介入を当然とした途端に、校内暴力が激減したという話は、その意味で示唆的である。
≪教師は本業に精を出すべし≫
逆に、犯罪的ないじめにまで、捜査権も処罰権もない教師が対応しなければならないのなら、彼らの精神的なストレスは増すだろうし、教師の本分である学力の向上や子供へのしつけもおろそかになりかねない。警察に任せるべきことは任せて、教師は本業に精を出すべきなのである。
それに、いくら校内であっても犯人を隠匿するのは、とりわけ罰金以上の処罰に当たる罪を犯したことがはっきりしている人間を校内だからといって隠匿するのは、立派な犯罪である。校内で子供が人を殺し、それを教師たちで隠匿したら罪になることぐらい、誰でも納得できるだろう。傷害、恐喝事件であっても、それは同じはずである。教師が犯人隠匿まがいの行為を犯していることが子供たちに知られたら、教育者としてやっていけるのだろうか。
集団精神医学の考え方では、除け者を作って仲間でまとまろうとしたり、悪者を作って自分たちが正義だと思おうとしたりするということは、人間が集団を形成する際の普遍的な心理だとされる。いじめの撲滅には努力すべきだが、それは現実には容易ではない、と認めることも肝要である。校内犯罪の撲滅をその第一歩とする方が、むしろ、教師の負担を軽減できて、子供たちのストレスも緩和できるのではないだろうか。
(わだ ひでき)