無能官僚・有害政治家の生い立ち | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






夕刻の備忘録 様のブログより。





無能官僚は何故無能か。
有害政治家は何故有害か。

無能と有能の差は何処から生じたのか。
無害と有害の差は何処から生じたのか。

経歴だけでは分からない、その原因を示唆する面白い記事を、有志より教えて頂いたので、以下にその要点を抜粋する。

「より速く適切に学べる人」:その理由
われわれは自分のプライドを守るために失敗を無視し、なかったことにするだろうか。それとも、われわれは間違いを調べ、どこで失敗したかを学ぼうとするだろうか。スタンフォード大学の心理学者キャロル・ドゥエック氏は、大きな影響を与えた研究[邦訳『「やればできる!」の研究――能力を開花させるマインドセットの力』草思社刊]の中で、知能に対する人間の姿勢(マインドセット)を2種類に分けている。

ひとつは、「自分の知能レベルはこのくらいであり、ほとんど変えることはできない」という固定的な姿勢、もうひとつは、「必要な時間とエネルギーさえ費やせば、ほぼどんな能力も伸ばすことができる」という成長志向の姿勢だ。固定的な姿勢をもつ人は、間違いを「ぶざまな失敗」とみなし、与えられた課題に対して自分に十分な能力がない証拠だと考える。一方、成長志向の姿勢をもつ人は、間違いを、知識を得るために必要な前段階、学びの原動力ととらえる。

ドゥエック氏の最もよく知られた研究は、クローディア・ミューラーとともに、ニューヨーク市内の12の学校で行ったものだ。研究では、5年生400人あまりに、言語を用いない比較的やさしいパズルを課題として与えた。テスト終了後、研究者たちは生徒たちに点数を伝え、簡潔な言葉でほめた。半分の生徒には彼らの知性をほめた(「あなたは頭がいいんだね」)。残りの半分には彼らの努力をほめた(「一生懸命やったね」)。

ドゥエック氏は最初、このほめ方の違いが大きな違いを生み出すとは考えていなかった。しょせん言葉にすぎないからだ。しかし実験の結果、5年生に与えられたほめ言葉に劇的な影響力があることがわかった。

まずは、最初の生徒たちにまた別のテストを2種類与え、生徒たち自身にどちらか好きなほうを選ばせた。ひとつは最初のものより難しいパズルだが、やればとても勉強になると説明された。もうひとつは、最初のものと同様の簡単なテストだ。努力をほめられた子どもたちは、90%近くが、難しいほうのパズルを選択した。一方、賢さをほめられた子どもたちは、ほとんどが簡単なほうのテストを選んだ。ドゥエック氏によると、知性をほめられた子どもは、自分を賢く「見せる」ことに気持ちを向けるようになり、間違いをおかすリスクをとれなくなるのだと説明している。

次に、もっと難度の高いテストが与えられた(5年生に対して8年生向けのテストが与えられた)。賢さをほめられた生徒たちはすぐ挫折してしまったが、努力をほめられた生徒たちは、このテストに熱心に取り組んだ。そして、このテストを受けた後で、両群の生徒たちは、成績が自分より低かった生徒と高かった生徒のうち、どちらかのテスト用紙を見る選択肢を与えられた。

賢さをほめられた生徒たちは、ほぼ全員が、自分よりテストの出来が悪かった生徒と自分を比較することで、自尊心を強化するほうを選んだ。これに対し、努力をほめられた生徒たちは、自分より成績のよかったテストを見るほうを選ぶ確率が高かった。彼らは失敗を理解し、失敗から学び、よりよい方法を編み出したいと思ったのだ。

最後に、最初のテストと同様の難易度であるテストが行われた。努力をほめられた生徒たちは、テスト結果が有意に上昇し、平均スコアが30%伸びた。彼らは、たとえ最初は失敗しても挑戦することを望んだので、より高い成績を得たのだ。この結果をさらに際立たせるのが、最初にランダムに「賢い」グループとされた生徒たちのスコアだ。こちらは前回から20%近くも低下した。失敗の経験でやる気をくじかれた「賢い」生徒たちは、実際に退歩してしまったのだ。

生徒の「賢さ」をほめることの問題は、教育というものの心理学的なリアリティを誤った形で示すことにある。それは、「間違いから学ぶ」という最も有益な学習活動を避けさせてしまう。間違いをおかすことで生じる不愉快な反応を経験しない限り、われわれの脳が既存のモデルを修正することはない。いつまでも同じ間違いをおかし、自信を傷つけないために、自らを成長させる機会を逃し続けるのだ。

TEXT BY Jonah Lehrer
TRANSLATION BY ガリレオ -高橋朋子/合原弘子
2011年10月18日 Wired.jp



記事には、こうした結論を導くに当たって参照した別の研究者の実験のことも書かれていた。要するに、この記事の結論は、「褒められたい人間が居る」ということであり、その気質は容易に悪循環に陥り、「失敗を怖れ、褒められる可能性の高いことにだけに取り組む人間」を生んでしまう、ということである。

そして、確かにある分野の人間を観察していると、「常に褒められたい」「どのような場合でも褒められたい」「生涯を通して褒められ続けたい」という強い欲求があるように見える。もうお分かりだろうが、官僚の世界がまさにそれではないか。

そこに「学歴華やかな官僚が、何故ああも極端な無能振りを曝すのか」、その答があるように思われる。加えて、その官僚の世界から、自分には別の能力もあるから、「その面も褒めて欲しい」と考えて政治の世界に進出した連中が、あの無残な政治家達なのではないだろうか。

古川元久などは、こうした典型のように思われる。

「1000万人移民受け入れ構想」などという浅薄の極みのようなことを、声高らかに主張する辺りに、「誰か」に褒められたい欲求が滲み出ている。この手の人間の特徴は、農業にしろ漁業にしろ、そして電力にしろ、「生産者に対する感謝の念」が全く無いところにある。朝から晩まで、イノベーション、イノベーションと、多彩であらねばならぬ国家戦略を、自分の好み一色に染め上げ、しかも肝心要のイノベーションを齎す人達には、完全な上から目線で、「使ってやるから、サッサと発明しろ」と言わんばかりの口吻である。

学歴で人は判らないが、見た目や態度は、確実にその人物の能力の有無を表す。「褒められたい病」の政治家は、何故か国民に褒められたいとは思わぬものらしい。明日にも辞めてくれれば、大絶賛の嵐になるだろうに。この辺りが無能の無能たる所以であろう。

誰かに褒められたい人間は極めて危険である。誰も褒めてくれなければ、褒めてくれる相手を探すからである。そして、それが外国勢力であった場合には……