夕刻の備忘録 様のブログより。
地元紙の商売は簡単である。日本を腐し、地元を褒める。これだけで購読者は維持出来る。何事も政府が悪く、地元は頑張っている。大きな対象、抽象的な対象を槍玉に挙げて、生活の話題は全て「購読者の顎を撫でるような話」にすり替える。
従って、「民主主義に対する議論」ほど、地元紙にとって扱いやすい話題はないのである。民主主義を安易に標榜する人間ほど、民主主義の何たるかを弁えず、その実態はまさに「民主主義の敵」そのものであることが、ここでもまた例証されている。
神奈川新聞社説2012年7月6日
多様な考え方の尊重を
元朝鮮人従軍慰安婦をテーマにした写真展をめぐり、会場を運営するニコンが中止を決めた問題で、東京地裁が同社に会場を使用させるよう命じる仮処分決定を出し、展示は当初の予定通り開かれている。民主主義の根幹である表現の自由を保障する、妥当な判断といえよう。
写真展を企画したのは、名古屋市在住の韓国人写真家・安世鴻さん。昨年12月に会場使用を申し込み、写真家らによる選考を経て、6月26日から展覧会が開かれることになっていた。
ところがネット上に「歴史の捏造に加担する売国行為」などと同展を批判する投稿が相次ぎ、ニコンにも苦情が寄せられた。このため同社は5月22日、「政治性がないことが応募条件であり、これに反する」などとして、写真展の中止を安さんに伝えていた。
ちなみに同会場で6月に開催された写真展のテーマには「リビア革命」があり、これは政治性と無縁とは言い切れまい。他のラインアップと比べ、テーマが特異であったり、違和感を覚えさせたりするものでもない。苦情さえなければ、何の問題もなく開かれたであろう。
今回の騒動には、既視感を覚えざるを得ない。2010年に和歌山県太地町のイルカ漁を告発した映画「ザ・コーヴ」が抗議で中止された件だ。やはりネット上に同作品の上映を「売国的」とする意見があふれ、さまざまな団体が抗議活動を行った。
このほかにも、日本教職員組合や在日本朝鮮人総連合会が予定した会合が一度は会場の使用を拒否された後、東京地裁が使用させることを求める判断を下している。
共通点は、いずれも会場側が「売国的」と批判を浴びた点だ。「日本を『おとしめる』者は、断じて許さない」と主張し「『自虐史観』を否定する『愛国者』」との立場をとる―。指弾する人たちはおおむね、こうした傾向にあるといえよう。
歴史認識や国家への距離感は基本的に個人の自由であり、わが国では許容されているはずだ。それぞれが自分の思うところを表現することも自由であろう。だが一部の考えをもつ人たちは、自分たちと異なる意見を力で排除しようとする行動を繰り返している。
多様な考え方を尊重し、その表明を互いに妨げない。それが、真に成熟した民主主義社会ではないか。
地裁の仮処分決定を「民主主義の根幹である表現の自由を保障する」と大袈裟に持ち上げているが、この自称写真家が「ニコン側の会場使用条件」に反していたことには何も触れられていない。使用条件に反していたのは、「政治性の問題だけ」では無かったはずである。無料で会場を借りながら、会場使用料として入場料を取ろうとしていたこともまた、一つの違反要件ではなかったか。
ネット上に「「歴史捏造に加担する売国行為」と同展を批判する投稿が相次ぎ」とあるが、「これは確かな事実である」と同時に、一体この「事実」の何が問題なのか。神奈川新聞は社説において、国民が企業の姿勢や、地裁の決定に対して「批判する権利」を否定するのか。
いきなり「リビア革命」展を例に引き、これを「政治性と無縁とは言い切れまい」と鼻息荒く書いている。アホである。「政治性の有無」のみが論点ではない。日本が第三者的な立場にあるリビアの問題と、根拠薄弱なる問題により日本を貶め、展覧会の開催をもって、さらなる「政治プロパガンダを日本国内において展開しようと画策している」今回の問題を同列に論じている辺りで、もはやこの記者のお里が知れるというものである。
加えて、「反捕鯨団体の仮面を被った暴力組織」の味方であることまで披瀝して大威張りなのは、もはや「記者が公的機関で働く資格の無い人間である」ことを明確に示している。日本国内で「日本を不当に貶める宣伝工作が展開された場合」、これを排除しようと抗議活動を行うことは当然のことである。ここでもこの記者は「ネット上に同作品の上映を「売国的」とする意見があふれ」と御丁寧に書いている。さてさて「意見があふれ」ることの何が不都合なのか。再び書く、神奈川新聞は社説において、国民が自らの「意見を表明すること」さえ否定するのか。
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そして、この社説は恐るべき結論を導いている。
「歴史認識や国家への距離感は基本的に個人の自由であり、わが国では許容されているはずだ。それぞれが自分の思うところを表現することも自由であろう。だが一部の考えをもつ人たちは、自分たちと異なる意見を力で排除しようとする行動を繰り返している」と書いている。バカに付ける薬は無いというが、国家への距離感は「個人の自由などではない」。それは必ず制限される。「国家を否定する距離感」など認めている国家など世界の何処にも無いのである。前提から結論まで正しいところが何処にも見当たらない。ここまで酷い駄文を「社説」として掲載するとは、これでは購読者には全く救いが無い。
そして、何時、誰が、どのような方法で「異なる意見を力で排除しよう」としたのか、神奈川新聞は答える責任があろう。一体、ネット上の抗議活動が、如何なる超能力をもって「物理的な力」にまで変化したのか。どんな魔法を使って、異なる意見を、「力」で排除しようとしたのか、教えて頂きたいものである。神奈川新聞にとっては、「売国行為は止めよ!」と主張するだけで、それは「物理的暴力」に等しいのか。「天下の民主党」ですら、そこまで愚かな主張はしていないのに。
最後に社説はこう締め括っている。曰く「多様な考え方を尊重し、その表明を互いに妨げない。それが、真に成熟した民主主義社会ではないか」と。
民主主義を標榜しながら、国民の意見表明を揶揄し、加えて「それを力によるもの」と断定することは、神奈川新聞そのものが「自ら主張する民主主義の根幹を否定している」ことに他ならない。
ネット上の意見表明を否定し、法に従い、現地警察官の指示に従って粛々と行われている各種抗議デモを否定し、それに参加する人達を、「「日本を『おとしめる』者は、断じて許さない」と主張し「『自虐史観』を否定する『愛国者』」との立場をとる―。指弾する人たちはおおむね、こうした傾向にあるといえよう」と書いて、レッテル張りに興じている。
それでは伺いたい、この社説の何処に、「多様な考え方を尊重し、その表明を互いに妨げない」という精神があるのか。異なる意見を認めていないのは、記者そのものではないか。日本を貶める発言のみを擁護し、それを糾弾し、それに対抗する言論を排除しようと必死に画策している神奈川新聞こそ、まさに「民主主義の敵そのもの」ではないか。
社説の程度が低いことは、新聞社全体の程度が低いことを意味する。ここまで低劣な記事を得意気に掲載するということは、神奈川新聞の全内容が、この社説以下の極めて劣悪なものであることを意味する。購読者は金を払う値打ちがあるか否か、今一度冷静に見極められた方が宜しかろう。
ただし、ネット上で不買運動を展開すると、直ちに「彼等は自虐史観を否定する愛国者である」と神奈川新聞に「断罪される」ので、覚悟しておいた方がいい。事実を書いただけで愛国者に成れるとは、随分と愛国者も安売りされたものである。それでは愛国者の皆々様、我々の活動は随分効果があるようなので、さらに加速させましょう。我が国の民主主義を護るために。