http://sankei.jp.msn.com/life/news/120630/art12063004020002-n1.htm
1枚の板切れが、7世紀末のわが国の国造りの様子を生々しく物語っていた。福岡県太宰府市、国分(こくぶ)松本遺跡から出土した「最古の戸籍木簡」である。
廃棄されて1300年以上、土中で腐食を免れたのは、豊富な地下水にパックされるという奇跡的な条件に恵まれたからだ。
長さ30センチ、幅8センチの薄い板の表と裏に、16人分の人名や身分、続柄などが130以上の漢字で墨書されている。戸籍を紙に書いて完成させる前段階のいわば下書きだが、赤外線写真で読み取れる内容は鮮烈だ。
◆よみがえる古代の戸籍
地名の「嶋評(しまのこおり)」は、福岡市西区から福岡県糸島(いとしま)市にかけて存在していた郡の名前である。ここで、「評」の文字は古代の年代判定に有効なものさしとなる。
「評」も「郡」も読みは同じ「こおり」なのだが、「評」は701年の大宝律令により「郡」と表記を改められた。つまり、701年より前に書かれたということが分かるのである。
一方、年代の上限を決めたのは「進大弐(しんだいに)」という記述だった。冠位のひとつで、初めて使われたのは685年。こうして、木簡は685年から701年にかけての17年間に書かれたと確定した。
歴史史料としての木簡の発見は、意外に新しい。昭和36年に平城京跡で初めて出土し、以後相次いで見つかり、現在までに全国で約40万点にも達している。
『日本書紀』などの歴史書の記述が編集方針によって史実が歪(ゆが)められることもあるのに比べ、木簡は現場で書かれた「ナマの史料」といわれる。後世の創作や捏造(ねつぞう)が入り込まないのが特徴だ。
改めて、木簡が書かれた7世紀末という時代を見てみよう。
◆あの「白村江」から20年
玄界灘を渡った日本(倭国)軍が唐・新羅連合軍と戦い大敗した「白村江の戦い」(663年)から、20年余りしかたっていない。飛鳥の朝廷の指導者には、それらの国々に攻められるという危機感すらあった。
「壬申の乱」(672年)を勝ち抜いた天武天皇や皇后の持統天皇、そして孫の文武(もんむ)天皇のもと、大国の唐や朝鮮半島を統一した新羅に対抗しうる強力な中央集権国家を造りあげる歩みが始まったばかりの時期でもあった。
指導者たちは「白村江の敗因」を冷静に分析した。
最大の原因は、軍隊が弱かったのである。というのも兵士は地方からかき集められ、訓練らしい訓練もされないまま、異国に送り込まれた。当然、士気も上がるわけはなかった。
指揮命令系統がはっきりせず、戦略らしい戦略もなかった。むやみやたらと敵の軍船に突っ込み、迎撃され大敗したのである。こうして得たのは、組織した軍隊を作り上げなければ国が滅ぶという冷厳な教訓であった。
朝廷が最初に手を付けたのが、人々を把握する戸籍の作成であった。徴税や徴兵のための、すべての基本となるデータである。
わが国の戸籍制度の歴史は、670年に最初の「庚午年籍(こうごねんじゃく)」が作られたとされ、690年には「庚寅(こういん)年籍」ができている。現物は伝わらないが、国家的プロジェクトだったことは間違いがない。
今回の木簡は7世紀末、こうした戸籍作りが進められていたことを裏付けた。他の地方でも同様の作業があったことだろう。
国分松本遺跡は「西の朝廷」といわれる大宰府政庁の近くで、木簡は筑前国(福岡県北部)の役所業務に関連したものだったようだ。名前とともに「兵士」の肩書のある人物もいて、戦役に駆り出されていたことが分かる。
◆日本版「万里の長城」も
偶然だが今月初旬、九州に飛んで太宰府市を中心に水城(みずき)の跡や大野城跡を見て歩く機会があった。水城は「白村江の戦い」の直後、大宰府防衛のために築かれた大規模な濠(ほり)付きの土塁で、大野城は「逃げの城」である。
ともに、唐と新羅によって滅ぼされ、日本に亡命してきた百済の工人の技術によって造られた。極めて堅固な構築物で、約600年後の鎌倉時代、モンゴルの襲来に際しても、実際の役に立ったことが証明されている。
大野城跡から見下ろすと、緑の木立からなる水城が一直線に延びていた。総延長は1・2キロ。日本版「万里の長城」といってもいい巨大遺構である。迫り来る外敵侵攻の脅威に、どう備えたらいいのか…。必死に思い悩む先人たちの表情が浮かびあがった。
ひるがえって現代。国の内外を見渡せば、状況こそ違うものの、国家としての危機の深刻さは変わらない。
戸籍木簡が語りかける、国造りのための先人たちの「必死さ」に学ばねばならない。
(わたなべ ひろあき)