【笠原健の信州読解】本能寺の変から430年。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120610/stt12061007000000-n1.htm
天下を掌中に収めかけていた織田信長が家臣の明智光秀に討たれた本能寺の変から今年で430年がたつ。戦国時代最大の事件といえる本能寺の変は当時の社会を強く揺さぶったが、その後のわが国の歴史にも大きな影響を与えた。なぜ、光秀は謀反を起こしたのか、信長が本能寺で倒れなかったら、わが国はどうなっていたのかなど歴史好きでなくても興味がわく。
本能寺の変は天正10(1582)年6月2日に起きた。中国地方で毛利軍と対陣していた羽柴秀吉を督励するために本能寺に宿泊していた信長は、その寝込みを光秀に襲われたわけで、「油断大敵」の見本のような事件だったといえる。
この時、秀吉以外の有力武将は、柴田勝家が北陸に陣を張り、滝川一益は関東経営に乗り出して日が浅く、丹羽長秀は長宗我部を討つために四国に渡海準備中と、京都は事実上の“真空状態”になっていた。
しかも信長と、同じく上洛していた信長の嫡男、信忠の周りには寡兵しかいなかった。この隙を見逃さずに行動を起こした光秀はやはり並の武将ではなかったといえる。
なぜ光秀が信長を襲ったのかにはさまざまな説がある。信長から受けたさまざまな仕打ちへの遺恨説、光秀にも天下への野望があったとの説、信長に追放された足利義昭が裏で糸を引いていたという説、秀吉黒幕説、徳川家康黒幕説などが主だったところだろう。実際のところは信長への遺恨と天下への野望がない交ぜになっていたというのが本当のところではないだろうか。
どんなリーダーを待望するのかというアンケートをすると、信長は必ず上位に入る。信長の決断力、革新性、行動力に誰もが「こんな指導者がいたら」と憧れるが、信長は仕えづらい人物でもある。
織田家中をまとめて尾張を統一し、美濃を平らげて「天下布武」を掲げ出したころはまだ表に出ていなかったようだが、浅井・朝倉家を滅ぼすあたりから、信長の残虐性、猜疑心の深さ、感情を自己抑制できない性格が徐々にあらわになる。
時代は戦国で殺伐とした雰囲気が社会に満ちていたとはいっても信長の行動は常軌を逸しているものがある。小生が信長に仕えたとしても3日もたたずに打ち首になってしまうだろう。
光秀はやはりそうした信長とは合わなかったといえる。坂本城を居城とした光秀は民政家としての手腕を発揮。また、信長に命じられて平定した丹波でも免税や河川改修を行うなどの善政を敷き、民心を獲得した。光秀が泰平の世の中となった江戸時代の大名だったら、さぞかし名君としてたたえられる業績を残したことだろう。
だが、天下布武を急ぐ信長にとって領地で民衆と濃密な関係を構築することなんて二の次。尾張から岐阜、岐阜から安土、安土から京都へと、転々として特定の土地に執着を持たなかった信長は、必要以上に領国経営に熱心になる光秀の胸中を理解できなかったのではないか。
人間関係でもそうだろう。人間を道具とみていた節がある信長にとって、なぜ光秀が斎藤利三を自分の手元に置きたがるのか不思議でしようがなかったのではないか。信長には「チーム明智」のような存在は必要ではなかった。
もし本能寺の変が起きなかったら歴史はどうなっていただろうか。だが、安国寺恵瓊が信長の将来を「高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候」と予言したように、あのとき光秀が弓を引かなくても第2、第3の光秀が現れて信長を倒した可能性が強い。