ハシゲとは何者か。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






夕刻の備忘録 様のブログより。





あのぬらりとした仮面のような顔。彼の仮面に似た素顔は、彼の仮面に似た心をそのまま語っている。彼は骨の髄まで仮面である。

「維新」とは組織や制度ではない。むしろ燃え上がる欲望だ。
その中核はハシゲという人物の憎悪にある。

ハシゲのような男に関しては、一見彼に親しい革命とか暴力とかいう言葉は、注意して使わないと間違う。バリケードを築いて行うような陳腐な革命は、彼が一番侮蔑していたものだ。革命の真意は、非合法を一挙に合法となすにある。それなら、革命などは国家権力を合法的に掌握してから行えば沢山だ。

これが早くから一貫して揺るがなかった彼の政治闘争の綱領である。彼は暴力の価値をはっきりと認めていた。平和愛好や暴力否定の思想ほど、彼が信用しなかったものはない。

彼の人生観を要約する事は要らない。要約不可能なほど簡単なのが、その特色だからだ。人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。それだけだ。簡単だからといって軽視出来ない。現代の教養人達もまた事実だけを重んじているのだ。独裁制について神経過敏になっている彼等に、ハシゲに対抗出来るような確乎とした人生観があるかどうか、獣性とは何の関係もない精神性が厳として実在するという哲学があるかどうかは甚だ疑わしいからである。ハシゲが、その高等戦術で、利用し成功したのも、まさに政治的教養人達の、この種の疑わしい性質であった。

人性は獣的であり、人生は争いである。そう、彼は確信した。従って、政治の構造は、勝ったものと負けたものとの関係にしか有り得ない。

人間にとって、獣の争いだけが普遍的なものなら、人間の独自性とは、仮説上、勝つ手段以外のものではあり得ない。ハシゲは、この誤りのない算術を、狂的に押し通した。一見妙に思われるかも知れないが、狂的なものと合理的なものとの道連れになるのは、極く普通な事なのである。精神病学者は、その事をよく知っている。ハシゲの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかったところに現れたと言った方がよかろう。

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕らえて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅薄な心理学に過ぎぬ。その点、個人の真理も群衆の心理も変わりはしない。

本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何もかも君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。

獣物の闘争という唯一の人性原理を信じたハシゲには、勿論、科学的であろうとなかろうとあらゆる世界観は美辞に過ぎない。だが美辞の力というものはある。この力は、インテリゲンチャの好物になっている間は、空疎で無力だが、一般大衆のうちに実現すれば、現実的な力となる。従って、ハシゲにとっては、世界観は大衆支配の有力な一手段であり、もっとはっきり言えば、高級化された一種の暴力なのである。

彼は世界観を美辞とは言わずに、大きな嘘と呼ぶ。大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥ずかしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼等が真に受けるのは、極く自然な道理である。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。嘘だったという事よりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である。

大衆が、信じられぬほどの健忘症である事も忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の眼を、特定の敵に集中させて置いての上だ。これには忍耐が要るが、大衆は、政治家が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに、敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読み取ってくれる。

論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。

ハシゲは、一切の教養に信を置かなかった。一切の教養は見せかけであり、それはさまざまな真理を語るような振りをしているが、実はさまざまな自負と欲念を語っているに過ぎないと確信していた。

専門的政治家達は、準備時代のハシゲを、無智なプロパガンディストと見なして、高を括っていた。言ってみれば、彼等に無智と映ったものこそ、実はハシゲの確信そのものであった。少なくとも彼等は、プロパガンダのハシゲ的意味を間違えていた。彼はプロパガンダを、単に政治の一手段と解したのではなかった。彼には、言葉の意味などというものが、全く興味がなかったのである。プロパガンダの力としてしか、およそ言葉というものを信用しなかった。

彼は、死んでも嘘ばかりついてやると固く決意し、これを実行した男だ。つまり、通常の政治家には、思いも及ばぬ完全な意味で、プロパガンダを遂行した男だ。だが、これは、人間は獣物だという彼の人性原理からの当然の帰結ではあるまいか。

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これは小林秀雄の『ヒットラアと悪魔』の主要部の固有名詞を置き換えたものである。ここでは唯一言、「完全に一致」とだけ書いておこう。なお、この記事を書いた後、雑誌『正論』において、同じ随筆が「同じ対象を論ずる」に当たって用いられていることを知った。誰の思いも同じということか。