「グレート・リジェクト」の勧め | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






夕刻の備忘録 様のブログより。








西の都の御大将は、派手好き、喧嘩好きの芸人風である。
その芸風は、所謂「ワンフレーズ・ポリティクス」。
気の利いた一言で世論に訴え、相手の思考を停止させ、正常な判断能力を麻痺させる。敵を作り、その敵と果敢に戦う自分を演じて、得点を稼ぐ。どんな暴言も、思慮分別に欠けた対応も、「強力な敵と戦うには致し方無い」で済ませていく。

心優しき市民とやらは、こうした対応に直ぐ馴染んでしまう。

「行政も、組織も何もかも賞味期限を過ぎ、耐用限界を越えている」というが、それは本当か。「あらゆる既得権益を潰して、改革の大鉈を振るうしかない」と得意の「しかない」を連発するしかない人達。しかし、「しかない」と言うわりには、余りにも無知であり、周辺状況を調べる気も無い辺りが、まさにお里が知れるのである。

何故「しかない」と考えるのか、それは何も知らないからだろう。ハンドルが右に回ることを知らなければ、左に回す「しかない」と興奮して暴れるだろう。真ん中に戻すことも、ブレーキを踏むことも知らなければ、「目の前に崖がある、左に切るしかない」と大声で叫ぶ「しかない」のである。まさに無知の証明である。

そして彼等は得意気に言う。
「もうグレート・リセットしかない」と。

かつて社会党の女党首もまた、「しかない論」を連発して、大衆に媚びを売り、敵に立ち向かう女闘士を演じ続けていた。「ボタンの掛け違いは、一度全部外してやり直さなければダメ」と叫んでいた。いい歳したばあさんが、「やるっキャない」と弾けてみせた。

これもまた何度も指摘してきたことであるが、それこそ愚の骨頂である。まともな大人、理性を持った大人なら、そんな馬鹿な対応はしないものである。やけくそのように、全ボタンを外したりせず、一つひとつ掛け直していくものだ。全部を外せば、また別種の掛け違いになるかもしれないではないか。

「グレート・リセット」などというバカげた宣言も全く同様である。第一、首長ごときが何の権限を持って、「リセットボタンを押せる」というのか。選挙で何を訴えて当選しようと、有権者は「アプリケーションソフトを変えるか」、せいぜい「OSの更新をするか」程度のことしか考えていない。誰がいきなりリセットボタンを押したり、電源を落としたりするものだと考えるか。

彼等の主張は、アプリの不便さを訴えた人間に対して、それを消去し、OSまでも完全削除し、ハードディスクを外した空箱を見せて、「どうだアプリは無用になっただろう」と啖呵を切っているのと同じことである。確かに「不便なアプリ」は消え失せた、しかしそこに残ったのは唯の箱であり、その昔、コンピュータと呼ばれたものの残骸に過ぎない。

府を廃止し、市を廃止して、道に成り損ねれば、そこに何が残るのか。それは、府でもない市でもなし、加えて道でもない唯の空箱であり、その昔、「西の都」と呼ばれたものの残骸に過ぎない。

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ワンフレーズに対抗するには、やはり「ワンフレーズ」に徹するしかない。同じ土俵に乗って争っては、同レベルに堕ちるなどと寝言を言っている暇はない。詐欺師に騙され、夢遊病患者のようになっている人間には、おもいきり横面を叩いて、目を覚まさせるしかないではないか。理に訴えて解決するような人達なら、元々そんな詐欺師に引っ掛からないはずだ。目には目を、ここはショック療法「しかない」のである。

そこで「グレート・リジェクト」なるものを提案する。
「大いなる拒否」である。

先ずは、経験不足の自称政治家達が得意気に語る「リセット論」をリジェクトする。そんなものは無用である。断固お断りである。政治家は有権者に向けて「選択肢」を示すことが仕事である。最初から「しかない」として、何の選択肢も示せない人間は、政治家ではない。一般社会人としても失格である。選びようのない話を、有権者に強要するのは、まさに独裁そのものである。

生活保護を受けながらそれを隠し、バレれば居直るという腐った連中をリジェクトする。意図を持って画策しながら、「知らなかった」と連呼すれば、世間がこれを許すと思う、その舐めた根性をリジェクトする。犯罪者や、嫌疑濃厚な者達のプライバシーのみを云々し、被害者や犠牲者のプライバシーを歯牙にも掛けない二枚舌連中をリジェクトする。

反日、反日で毎日大騒ぎをしながら、大嫌いなはずの日本の通貨「円」だけには目が無い連中もリジェクトする。こちらはさらに「グレート・デリート」したい程である。


我々日本国民は、「リセット」など求めていない。
求めているのは、「リジェクト」である。

人を騙し、国を騙し、そしてバレれば居直る穢れた人間達を拒否するだけである。相手が少数と見れば恫喝を繰り返し、多数と見れば泣き落としに掛かる。そんな薄気味悪い連中を拒否するだけである。

我々の闘いは、「拒否の闘い」である。
何も難しい話ではない。

「日本は日本人のためのものではない」などという大暴言を拒否し、「東アジア共同体」なる妄想を拒否し、「外国人参政権」を拒否し、「人権擁護法案」を拒否し、「夫婦別姓」を拒否し、「捏造ブーム」を拒否し、「捏造マスコミ」を拒否し、「生活保護」を受けながら真昼間からベンツで玉入れ場に足繁く通う詐欺師どもを拒否し、それを擁護し、自らに火の粉が掛からないように必死に防衛線を築いている予備軍どもを拒否する。

反原発をメシのタネにしている者達を拒否し、反原発を政治権力の源泉にしている者達を拒否し、反原発を己の慾望達成の為に利用している者達を拒否し、反原発を我が国の国益毀損の為だけに推進しているスパイどもを拒否し、何も決められない、何も出来ない、何をする意欲も意志も無い民主党を拒否する。

これがグレート・リジェクトである。
それは百年前、福沢諭吉が始めた闘いでもある。
「脱亜論」こそ、グレート・リジェクトの嚆矢である。
我々は、この「拒否」を粘り強く、各方面に拡げていくべきなのである。
もう一度書く、「今、時代はリジェクト」である。








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