台湾で(その3)、映画「海角七号」の風景。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






西村眞悟の時事通信 より。





この際、「書いといたほうがええやろうなー」と思い始めたことを書いておく。
 
 台東の街の原住民のアクセサリーや民芸を展示販売しているフロアーの棚に、台湾映画「海角七号」のビデオがずらりと並んでいた。
 この映画は、互いに愛し合っている台湾の原住民の少女と日本人青年との、日本の敗戦にともなう切ない別れと、その青年の死後に八十歳代になっている台湾の少女に届く青年の連綿と愛を綴った手紙を背後の風景にして、
 現在の台湾の台北から離れた海辺の街で、原住民を含む台湾人の老若男女と日本人の若い挑戦的な女性が台湾語、北京語、日本語で繰り広げる愛と確執の物語である。
 映画の最後に、八十歳を過ぎた少女の横に日本から郵送された青年の愛の手紙をそっと置いた台湾青年は、台北から逃げ出した自分を叱咤激励している日本人女性と自分との絆に気付く。
 
 「海角七号」とは、日本時代の少女の住所である。
 敗戦で台湾を去った青年は、この「海角七号」という住所と「小島友子様」という少女の名を書いた封筒を七つ残しながら、この物語の年の初めに亡くなる。
 遺品を整理していた青年の娘が、七つの封筒と父が大事にしていたであろう少女の写真を、立派な漆細工の箱に入れ、
住所を「海角七号」、宛名を「小島友子様」として台湾に送ったのだ。
 しかし、現在の台湾では日本時代の住居表示は全て抹消されており、街に海角七号は何処かを知る人は見つけられない。
 物語の最後に、日本人女性が少女の所在を突き止め、台湾青年が手紙を届けるのだ。
 
 映画では、去りゆく日本青年の顔ははっきり映さない。深く帽子をかぶって船に乗っている姿と、バックを提げて田園の細道を港に向けて歩いている台湾を去るときの後ろ姿が映るだけだ。
 少女の姿と顔は正面から映る。
 兵士が銃を構えて日本人を乗り込ませている船の前に十七歳くらいの少女はいる。白い帽子と白いドレスそして白いソックスをはいて、革の鞄を二つ持って少女は不安げに悲しそうに立っている。そして、船を見上げたり後ろを振り返ったりしている。明らかに、青年を捜している。青年を見つければ共に船に乗って日本に行くつもりなのだ。
 少女を日本に連れて行けない青年は、気付かれないように船に乗ったのだろう。出港してゆく船の舷側から隠れて自分を探して船を見上げている白い切ない少女を見つめている。
 そして、八十歳を過ぎでその青年から来た手紙を手に取る少女は、農家の中庭に白い服をきて腰掛けている老婦人の後ろ姿として映されている。
 この映画の、全編を通じて感じることは、感性の共有だ。
 台湾と日本の同じ感性と心の絆が、この映画の背景である。
 
 昨年の三月十一日の東日本巨大地震巨大津波の大災害に際し、台湾からの義援金、援助金が世界一多かった。
 大阪で台湾人にお礼を言った。「ありがとうございます」と。
 その時彼が答えた。
「私たち台湾人は、日本人を外国人だと思っていないのですよ。同胞だと思っているのですよ。」
 この時、涙が出かかったが、この度の台湾の旅と、映画「海角七号」で、あの時大阪で台湾人が言ったことは、本当だったんだと実感できた。

 以上が、「やはり、書いておいたほうがええやろなー」と思う背景である。台湾と日本の絆に関係があるからだ。
 (親父もおふくろも、生きてたら百八歳と百三歳やし)
 
 さて、僕の親父は、明治三十七年の生まれで、僕は末っ子で親父四十五歳の時に生まれた。
 親父は戦前のことはあまり語らなかったが、東アジア経済圏の共存共栄の為に奔走していたらしい。戦前に、もう失われてしまったが、「大東亜経済建設原理」という本を著している。
 名前を西村栄一。
 この親父が、戦前、台湾の原住民である高砂族と親しかったらしい。
 ここまでは、親父も言っていた。「俺は高砂族のことはよく知っている」、と。
 そして、テレビで台湾の映像が流れると、「あ、この娘は高砂族だ」と言ったりするので、「分かるんですか」と聞くと、
「ああ、顔を見たらすぐ分かる」と何か感慨深くうなずいていた。
 しかし子供にも、親父が高砂族を語る様子や、そばにいるおふくろの気配で、親父は高砂族と親しかったのではなく、高砂族の娘と親しかったんやろうとおおよその見当はついていた。
 親父は、大東亜戦争が激化するなかで台湾に立ち寄りそして帰国したらしいが(生まれていないので知らない)、戦後一度も台湾に行ったことはない。そして昭和四十六年に亡くなる。
 
 その間、聞き出している親父と高砂族に関する情報は、まことに乏しいものの、以下の通りである。
 親父は、高砂族の娘と懇ろになったことはかなり確かなことであろう。戦後、台湾から手紙がきた。それをおふくろが引きちぎったらしい。
 戦局急な折、親父は最後に台湾を離れるが、その際、その娘にピストルと弾を渡している。形見として渡したのか護身用として渡したのか定かではない。親父はおふくろにも護身用としてピストルを渡していたからだ。おふくろのピストルは、戦後警察に提出し(おしいことをした。モーゼルだった)、台湾に親父がおいてきたピストルは、結果として形見となったことは確かである。

 そこで、話しは、この四月十九日、台湾の花蓮の一つ南の小さな街である吉安に飛ぶ。
 この駅前に、高砂義勇軍兵士であった宮本武治さんの家がある。そこを訪ねた。そして、宮本さんの話を聞き涙をみた。
 その後、この吉安の街を歩くと、宮本さんの家がある南昌北路に寝そべったり歩いたりしている犬はおおかた黒で、これと交差する東西路に寝そべっている犬はおおかた茶色だ。
 推測するに、北路では黒い犬がボスでもっぱら種付けし、交差する東西路では茶色い犬が縄張りをはって他の種が入らないようにしているのだろう。
 同じほ乳類。山野においては、人間様にも昔はこういう縄張りがあったのだろうか。やはり、男は強くなければならない。
 歩きながら、このようなことをとりとめなく思っていた。
 つまり、のどかな、のどかな田舎町なのだ。

 そして、夜、宮本さんが付近の同じ仲間を集めてくれて会食となった。集まった人は皆日本名を名乗り日本語を話す。そして、乾杯、乾杯の連続。
 
 その中の若手の一人と歌を歌い名乗りあう。
 その人、「僕は、西村徳太郎といいます」と言った。
 僕は、一瞬、親父が高砂族の娘と懇ろになったというのはほんまやったんだと思った。
 そして、西村徳太郎さんに生まれた年を聞いた。
 すると「昭和十八年」という。
 いよいよ符合してくる。えらいこっちゃ。
 そこでまた聞いた。
「徳太郎さん、徳太郎さん、
 親父さんの名前は、ひょっとして栄一とちゃうか」
 一瞬、酔眼に固唾を飲んで答えを待つ。
 答えは、「栄一と違う、何々です」。
この何何の部分は、カラオケの大音響で聞き取れなかった。

 その後、僕はマイクで「抜刀隊」と「元寇の歌」を歌った。高砂族大喜びで拍手。
 そして、さらに河内音頭を歌い、ほんまの河内の三宅博さんが踊り始める(僕は、泉州)。
 すると、すぐ高砂族の娘さん二人が、三宅さんの後をついて踊り始めた。見事な身のこなし、河内音頭とリズム感が完全に一致している。明るく輝く笑顔。つまり、チャーミングだ。
 
 歌いながらその踊る娘さんたちを見ていて、七十年以上の時空を隔てて、今さらのように親父の気持ちがよく分かった。
 そうやったんか、親父、と。
 僕もそのうち、テレビで台湾の映像を観ていて、親父のように、「あ、あの子、高砂族や」とつぶやくようになるかも知れない。そして、おふくろの気配を感じた親父のように、その先は何も言わない。父親と息子は、だんだん似てくるというから。





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