錯誤と怪奇と残虐のポピュリズム。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






夕刻の備忘録 様のブログより。




財政と年金の問題が、消費増税と絡めて論じられている。よく分からないものでも、とにかく二つを一つにまとめれば「一体改革」となるそうだ。「長期的」には財政再建が重要課題となり得るが、「短期的」には震災復旧復興が最優先されるべきである。目の前で亡くなり、また追加の人災により亡くなろうとしている国民が多数居る中で、こうした錯誤、即ち「時間的な長期と短期の取り違え、或いは意図的なすり替え」は断じて許せない。

「マクロ経済」と「ミクロ経済」という区分がある。簡単にいえば、国家経営と会社経営に対比できる(会社の経営を最小サイズにしたものが、家計である)。両者の相違点は何か。これまた乱暴にいえば、「通貨発行」に関する権限を考慮するかしないかである。目の前で亡くなり、また追加の人災により亡くなろうとしている国民が多数居る中で、こうした錯誤、即ち「空間的な規模の取り違え、或いは意図的なすり替え」は断じて許せない。

こうしてまるでSF映画の宣伝文句のような、「時間と空間を越えた宇宙規模の錯誤ファンタジー」が繰り広げられているのが現状である。

               ★ ★ ★ ★ ★

村があり、町があり、市があり、県があり、府があり、道があり、都があり、国だけなくて世界がある。県の歌も、県の旗も批判されることはないが、国歌と国旗は侮辱される。村民も町民も市民も県民も府民も都民も居るけれど、この国には「国民」だけが存在しない。グローバリズムは歓迎されるが、ナショナリズムは疎まれる。

こうしてまるで怪奇映画の宣伝文句のような、「あの人達は何処の世界から来たのだろうか?」が繰り広げられているのが現状である。

朝日を読めばホラーが味わえ、日経読めばSFの主人公になれる。

               ★ ★ ★ ★ ★

西も東も、都のことはよく知らないが、ホラーとSFのネタは、日本を席巻したままで果てる様子はない。とりわけ西の都の「ミスター劣等感」は、この種のすり替えの名人ときている。自らを嘘吐きと自著にて公言し、自らを権力の亡者と自著にて公言し、「最高の権力を求めて政治家になった」と自著にて公言した「私利私欲オマケで公益」の人物なのである。嘘とすり替えは、息吐くようなものであろう。

暴君、いや某君のツイッターを読めば、「品性の下劣さ」とは如何なるものかがよく分かる。整理屋弁護士の仕事ぶりがよく分かる。劣等感の虜となった人間は、何としてでも優越感に浸りたい。その為に敵を求め、その為に敵を罵り、自らの経験を誇示し、業績をうたいあげ、高らかに笑う。その優越感の基礎となっているのは、頼みもしないのに自らに投票した『馬鹿な有権者ども』である。「急激な改革が嫌なら、沈む日本と共に滅びればいい」と罵られた有権者達である。

しかし、それでもその「人気が衰えることはない」だろう。何しろ「入れ墨者が百人を越える」と噂される組織である。毎週毎週、そのうちの誰かを槍玉にあげればいい。

週末はマタドールと化した首長が、牛を血祭りにあげれば、民衆は歓喜の声を挙げてこれを支持する。代わりの牛に事欠かない組織である。人々の不満が溜まれば、「一夜の惨殺ショー」を提供すればそれで済むのである。こうして有権者は何度も何度も騙される。

市中引き回しの獄門、公開処刑が見たければ「Go West!」である。

罪人を処することは当然である。
しかし、それは静かに、人知れず行うのが公的組織の役目である。
そう考え、それを望むのが人の理性である。
果たして西の都の住人に「理性」が回復する日は来るのだろうか。

そろそろ有権者は、「個人の病的な劣等感」の捌け口として利用されていることに気付いた方がいいだろう。あれは改革者でもなければ、独裁者でもない。単なる病人である。