責任野党ではない「政府野党」である。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





夕刻の備忘録 様のブログより。




何か申し合わせでもしているかのように、実際、何らかの申し合わせをしているのだろうが、突如としてネットスラングである「責任野党」が表舞台に飛び出した。非公開で行われる「党首会談」を自民党が拒否し「党首討論」に臨む、その瞬間を捉えて、新聞各紙が一斉にこの言葉を使い出した。

既存のマスコミは、ネットを敵視すると同時に、剽窃している。「詠み人知らず」「作者不詳」の作品だと甘く見て、しばしば自分の言葉のように使っている輩がいる。

今回もその例に漏れない。何気なく、しかし確実に著作権の網の目を掻い潜って、他人のアイデアを盗んでいる。民主党の弁護士議員ならこう言うに違いない、「何が悪いだ、何処も法律には触れていないじゃないか」と。どのみちパクるなら、こちらも使えばいいではないか。

「政府野党」である。

これもまた意味深いスラングである。政権交代以降も、国内外に山積する難問には、自民党はこれを逃げず、真摯に対応してきた。野党として出来る限りのことをしてきた。特に震災以降は、政府に対する五百を越える提言と共に、多くの関係者が被災地に入り、現地の声を、我々国民にも伝えてくれた。それを指して、政府与党という当然過ぎる枠組を揶揄して出来たのが、このスラングである。日本国を今なお正常に保たせているのは、自民党である。

これまでならば、「野党第一党の責任」というべきところを、「責任野党」という新造語で縮め、さらにその奥に原義とは異なる「侮辱的意味を込めて使っている」のである。従って、「政府野党」は使わないだろう。この矛盾した言葉は、より直接的に政権を批判したものであり、“悪用が難しいもの”だからである。

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何時まで経っても目覚めない国民。マスコミに誘導され、今も誘導されることで、他人の意見をそのまま鵜呑みにし、しかも「それを自分の意見のように錯覚して生きている人達」にとっては、自民党批判は未だに蜜の味がする快楽なのである。

こうした結果は容易に想像出来た。従って、先の衆議院選挙で、この状況を決定的に打破するためには、全自民党議員が辞職して、名実共に「国政から消えることが必要だった」のだ。この絶望的な荒療治なくして、国民は決して覚醒しない。いやそれでも覚醒しない確率が高いからこそ、自民党も耐えて忍んで今日の日を迎えているのである。

もし、全自民党議員が国会から消え去れば、流石のマスコミも自民党批判は出来ないだろう。マスコミは、現状は全て過去の自民党の失政がもたらしたものである、と言い続けるであろうが、民主党とて、自らの「新しい失政」を自民党の所為には出来ない。自民党が足を引っ張っているとは絶対に言えないのである。従って、「自民党が消えてなくなることこそ、民主党が最も恐れる現実」のはずである。

加えて、官僚も大量退職すれば、国家は完全に機能不全に陥る。そこまで行って初めて、国民は自らの愚かさに気づくのではないだろうか。そして、必死の思いで元議員を捜し出し、何としてでも国政に再挑戦させようとするのではないか。

これは非現実的な話かもしれない。しかし、その非現実的仮定の下にシミュレートしたこの予想は、現実を見事に描写したものになるに違いない。英雄待望論者は、過去の英雄を懐かしむ。「失って初めて知る親の有難味」というものである。

そこまでやって初めて国民は知るのである。
「どっちもどっち」などではないと。

国家経営をすることは、針の穴に糸を通すように難しいことなのだ。だからこそ経験が必要であり、デスクワークだけでのし上がってきた連中には到底無理な話なのだ。机上の空論に終始する無責任政党・民主党と、与党時代と変わらぬ責任感をもって、困難に対応している自民党と、どちらが国家を任せるに足る政党であるか。自民党が晴れて「政府与党」に復帰し、その責任を追い、我々もまた「その責任を追及する」という牧歌的な時代に戻したいものである。





























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