西村眞悟の時事通信より。
昨日、大阪地検特捜部長および同副部長だった大坪弘道さんと佐賀元明さんに対する、犯人隠匿罪被告事件に対する有罪判決が、大阪地裁であった。
そこで、判決を聞いた時に感じたことを述べておきたい。
(1)、両被告の有罪判決は残念である。
何故なら、私は、両被告は無罪だと思っていたからだ。
(2)、次に、有罪の判断をしたのならば、言い渡し刑は「実刑」であるべきだ。
しかるに、裁判所は執行猶予を付した。
これは、裁判官が自らの事実認定に自信がもてず、かといって、この重大事件に対して最高検の意向を否定して「無罪」を宣告する勇気がなく、痛み分けにして逃げた結果である。
(3)、この判決は、例によって、「検察の病弊」を指摘して、マスコミ各社はそれを大書引用して報道している。
しかし、我が国の刑事司法のプロセスのなかで、
検察にだけに「病弊」があって、
裁判所には「病弊」が無いのか。
この判決自体が、「裁判所の病弊」を顕している。
それは、事実認定が難しいときには、検察側の意向に従い、
民間の立場にいる弁護側を無視して、波風をたてずに処理していこうという検察同調の官僚根性である。
まず(1)について
判決要旨を読むと、改竄認定の証拠は、白井検事の供述が捜査段階から一貫し供述態度も真摯なので信用性が高いということである。
・・・当たり前ではないか。
そもそも最高検が若手検事を取り調べているのである。
彼等は、平素から最高検で報告するときには、足のかかとを揃えて直立不動の姿勢をとらねばならない者である。この彼等が、こともあろうに最高検に取り調べられるのである。
「供述が捜査段階から一貫して供述態度も真摯」なのは当たり前だ。最高検の提出する調書が、「供述が変遷し供述態度も不真面目」なはずがないではないか。
それに対して、特捜部検事の身でありながら、一変して被疑者、被告人として逮捕拘留中の身になった、大坪、佐賀両氏の供述が、「捜査段階から一貫し供述態度も真摯である」ことに何故注目しないのか。
刑事司法に身を置く者ならば、長期間逮捕勾留されれば、人は初めは誤魔化していても、いずれは「真実」を自白するものだということを知っているはずだ。つまりこのとき、「供述は変遷する」。
白井検事の供述が一貫していると評価するならば、大坪、佐賀両被告の供述も一貫していると評価しなければならない。
地裁判決は、事実認定、証拠の評価に関しても、最高検に迎合している。
(2)について
判決は、被告を黒(有罪)としながら、何故執行猶予を付したのか。
黒と言うことは、前田検事がフロッピーの日付を改竄し、その改竄を上司の大坪、佐賀両被告が隠蔽して無実の村木さんを罪に陥れようとした、ということである。まさに「刑事司法に対する社会の信頼を大きく損ねたものである」。
それ故、前田は実刑だ。従って、判決は、何故両被告も実刑にしなかったのか。
また、証拠隠滅と犯人隠避は同種の犯罪であるが、オウム真理教の幹部を十数年匿っていた女性は、先日実刑となっている。
犯人隠避罪は、親族を隠避した場合には刑を免除されることがある犯罪である。そしてこの女性は事実上オウムの元幹部と夫婦の関係にあった。しかし、この事実上の関係を一切考慮されず実刑を宣告されている。
これらを考慮すれば、判決が、両被告を有罪としながら執行猶予を付したことは、社会正義に反して極めて不合理である。つまり、昨日の判決には、裁判所としての「論理の一貫性がない」。
(3)について
今まで、冤罪が発覚すれば、捜査機関・検察が悪いとマスコミも一斉に検察批判を展開するが、冤罪を生み出す温床は、検察だけではない。
まず、無実の者に犯人らしきベールを幾重にも重ねて裁判の前に「犯人を造ってゆく」マスコミが冤罪の大きな温床である。
このマスコミが作り上げる「嘘」の塊こそ、まさに恐るべき冤罪の温床なのだ。一度経験した者でないと、この恐ろしさは理解できないだろう。
その上で、やはり、検察の意向に迎合した判決を書く裁判所が、最終的に冤罪を作り上げる。制度上、裁判所こそ最終的に冤罪を生み出す組織なのだ。
しかるに、この度の判決は、「検察の病弊」を指摘しながら、
「検察の意向」に従って(迎合して)判決を書いて、
「裁判所の病弊」をされけ出している。
大坪、佐賀両被告は、控訴して闘うという。
ご健闘を切に祈る。真実はいずれ勝つ。