「子供手当」は本当に消えたのか? | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






夕刻の備忘録 様のブログより。




民主党が目玉政策の一つと自称する、「子供手当」という名の買収工作は、さほどの威力を発揮しなかった。誰も喜ばなかったからだ。周りを見ても、ネット上の書込みを見ても、喜んでいる人に出会ったことがない。それは現金だから、受け取らない選択はないだろう。懐に入るものは何であれ入れるだろう。

しかし、これを絶賛し、その永続を願う人はほとんど見受けないのである。その一つの証拠が、これだけ長期間に渡ってその存廃が議論されているにも関わらず、毎度お馴染みの特定の人達が発する「熱狂的な擁護」の声すら聞かないからである。

結局、日本国民は総じてこの「現金配り」に懐疑的であった。貰えない人達は当然として、貰える人達ですら半信半疑であった。心の底から喜んでいたのは、国籍の異なる連中だけであろう。養子縁組を何重にも重ねて、取れるだけ取ってやろうと手ぐすねを引いていた外国人だけであろう。

他の税金と差し引きして、子供の居る家庭ですら「手当の分が正味で残るのか否か」、そんな基本中の基本ですら、全く分からなかったのである。そんな中で、流石に民主党に万歳三唱をするほど、各家庭は金に無頓着ではなかったのである。

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しかし、本当に決着が着いたのか。
本当に「子供手当」は無くなったのか。

ここまでの経緯を見て、未だに信じられないのである。三党合意から始まった子供手当埋葬への道であるが、どれだけの異なる名称がその間に提案され、どれだけの詐欺紛いの宣伝工作がなされたか。三党合意直後ですら「子供手当は無くなりません」というビラを配って歩いた政党なのである。

子供手当から旧来の「児童手当」に戻すのは、単なる名称の変更問題ではないのだ。この辺りの事情を、マスコミは例によって誤魔化し、隠蔽し、そして国民が誤解するように、理解できないように仕向けている。名称問題は、民主党特有の薄汚い戦術であり、周囲の者をウンザリさせれば、興味を失って、その結果、「自分達がフリーハンドを握れる」という腐った魂胆なのである。

遂に終焉の時が来た。ようやく「子供手当」の葬送行進曲が鳴り、民主党各位のすすり泣きの声でも聞こえるかと思った瞬間、厚労大臣は何と発言したか。

「子供手当の理念は残ります!」

と言い放ったのである。財源の無い中でのバラマキ政策、その看板は遂に終わりを告げた。しかし、「その理念は残った」と嘯いたのである。ではその理念とは何か。民主党が掲げてきた「子供手当」を中心とした理念とは

「子供は社会全体で育てるもの」

という左翼思想である。この言葉を所管大臣は連呼してきた。そして、「葬儀の最中」にまでこれを言い放ったのである。まさに「子供手当は死なず」と断言したと考えてよい。彼等はその理念とやらを捨てず、財源の問題によって一時撤退したに過ぎないということである。

子供を社会が育てる、子供の教育に関して親以上に社会が関わる。このことの真の意味を考えねばならない。「手当」をばらまいて、高校を無償化して、選挙の票に換算して政権を強化しようという「シンプルに腐った話」ではないのだ。「複雑怪奇に腐っている」のだ。

その本質は、彼等が人間は教育によって、どのようにも「作れる」と考えているところにある。現幹事長が断言した「教育の政治的中立は有り得ない」という発言も同根である。彼等は学校を牛耳り、金の力で親から引き離し、「政治的に中立でない教育」を徹底的に施せば、幾らでも「ロボットを作り得る」と考えているのである。

かつて共産国家で礼賛され、今も一部では継続されているこの手法であるが、自由の国のはずのアメリカにもまた、こうした教育万能主義が蔓延る素地がある。十年周期ぐらいでやってくる「新教育システム」の話は、たいてい見た目を変えた「教育万能主義」であり、特定のメソッドに従えば、芸術家でもスポーツ選手でも、発明家でも政治家でも自由に作り出せるという「人間無視の思想」である。

人間を鋳型に嵌めて、「指導者」の思いのままに操れると考える連中が、常に教育の無償化を唱え、手当の重要さを論じ、猫撫で声で親達を籠絡しようと躍起になってきたのである。それが彼等の言う「子供手当の理念」である。事実上の「共産化の勧め」である。

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従って、厚労大臣の宣言の通り、「子供手当」は未だ死んではいないのである。彼等が宗旨替えをすることは絶対にない。彼等と彼等の裏に潜む「赤い官僚達」が、こうした左翼独特の発想を変えることは無いのである。社会党では選挙に勝てないと値踏みした連中が、大挙して民主党内に隠れ家を作った。その結果、驚くべき純度で民主党は社会主義政党になった。政権交代直後に「政治の文化大革命が始まった」と吠えた自称「健忘症」が居たではないか。

子供手当の理念とは、民主党の理念である。「革命」という言葉が大好きで、君が代・日の丸が大嫌いな連中の理念である。「手当」という名のウイルスを仕込めば、家族が崩壊すると信じている連中の理念である。親を頼らず、社会を頼り、その社会は民主党が牛耳っているが故に、子供は揃って民主党を頼るようになる。少なくとも逆らわないようになる。そう信じている連中である。

実際、プラカードを挙げては拘留され、ヤジを飛ばしただけで襲い掛かられているのである。弾圧は「言論の枠を飛び越えて始まっている」のである。黙っていても逮捕される、反抗的な目で見たというだけで拘留される、そんな嘘のような話が、次第に現実化されつつある。

日教組に支配された政党であり、その幹部が遂に党幹事長にまでなっている政党である。彼等が子供の名を口にする時、それは次代を制圧する為のロボットを欲するが故であり、一人一人の子供の笑顔のためにと宣伝する時、それは民主党員だけに向けた笑顔なのである。

「党が全力挙げてやってくれているから心配ない」「私達の党が、私達を育て護ってくれる」。だから、それに反する者は「友達でも売る」「親でも密告する」。それが彼等の「理想の子育て」なのである。

これは誇張でも何でもない、彼等の片言隻句を見逃さず、集めるだけで自然に導かれる結論である。嘘だと思われるなら、自分の手で始めてみればいい、ホンの数時間の作業で愕然とするだろう。この結論にしか至らないことを知るだろう。繰り返すが「政治的中立が有り得ない」ということは、子供達への教育は「政治的に偏ったものだけを与える」ということである。

日本国民は「一票の恐ろしさ」を、今こそ噛み締めねばならないのだ。