夕刻の備忘録 様のブログより。
時の権力から離れてこれを批判し、公平中立の立場から、不義不正を糺す。それがマスコミの役割である。しかし、この役割が果たされた試しがない。個人においてはいざ知らず、組織としてマスコミが公平中立であったことなど一度もない。
かつてマスコミ人士の口癖は、「政権党だから批判する、与党だから批判するのであって、自民党だからこれをしている訳ではない。政権が変われば、またその時の与党を批判するのだ。それが我々の仕事だ」と豪語していた。
それが「全くの嘘であった」ことを、つくづく思い知らされたこの三年である。普通に新聞を読み、普通にテレビを見て、普通にものを考えられる人ならば、その証拠はまさに山のように見出せる。それでもなお、この点に疑義を感じる人は、何処かが狂っているのである。「与党とは自民党の別名だ」と未だに信じている人がいるようだが、まさにこのレベルの人なのであろう。
ここまで酷くはなくても、未だに「現状のマスコミの存在を肯定している人」は多いようである。問題は深刻なのである。何故なら、多くの国民はマスコミを「野球の審判」だと思っているのである。試合の流れを円滑にし、選手間で揉め事が生じれば仲裁する。その程度の存在だと思っているのである。
「審判が試合を決める」とは考えていないのである。
審判がどんなに叫んでも、フェンスを越えていけばホームランである。頭にボールをぶつければデッドボールである。場合によっては即退場である。誰がやったところで、余程の微妙なプレーでも重ならない限り、試合はほぼ自動的に流れていく。
ところがサッカーは違う。審判の存在は決定的である。十億人が目の前で見た劇的ゴールシーンも、「今のはオフサイド」とコールすれば、それで終わりである。密集状態の中で、「誰かが誰かを殴った」としてレッドを出せば一発退場である。チームスポーツの基本である参加人数すら不均衡に出来るのである。
ゴール前での揉め事なら、極めて決定率の高いペナルティキックを、好きなチームの方に「プレゼント」することも出来る。一点を争うサッカーというゲームの中で、審判はその一点を左右する。どうにでも出来るのである。
マスコミは「野球の審判」ではない。
「サッカーの審判」なのである。
政治状況をどのようにも動かせる。国民がこの審判を公平中立だと信じている限り、彼等は試合をコントロール出来る。その結果を左右することが出来るのである。
麻生政権時代と、民主党政権を比較してみればいい。
この「審判」が、どれほど偏った異常な連中であるか。
「法と証拠に基づいて」が決まり文句の人々は、この決定的な「証拠」の山を何と見る。毎日毎日、何を言っても、何をやっても、プレーの無効を宣言し、審判の領域を遙かに越えて試合の進行にまで口を挟み、真正面からゴールネットに突き刺さった「歴史的ゴール」さえもこれを無いことにしていた。
彼等の言動に釣られて、心無い国民は「チームを批判」し、「点の取れないフォワードだ」と叫び、「護れないディフェンスだ」と罵倒していた。それが麻生政権時代であった。
一転して今はどうか。そもそも試合に出る資格も技量も無い子供が、俺も俺もと「日本代表の座」を不法占拠している。国際会議の末席を穢しては、「W杯出場だ!」とはしゃいでいる。スポーツとは決して相容れない、裏社会の人間までピッチに立たせている。買収も脅迫も日常茶飯のこととなった。遂には観客にま襲い掛かる始末である。
マスコミの重要性は如何ばかりか。
社会の全容を知る人には無用の長物である。
裏の力学に詳しい人にも無用の長物である。
しかし、騙され易い人達には、マスコミはその詐欺師としての力量を存分に発揮する。その結果、公平中立な人間の鏡、社会の木鐸として映るのである。審判は買収されもする、元より公平でも中立でもない、と考えて試合全体を厳しく見詰める観客と、審判に全幅の信頼を寄せ、その行動の全てを信じ、少なくとも悪意の無いことだけは徹底的に信じて、個々のプレーを見ようとしない、検証しようともしない観客と、果たしてどちらがまともなのか。むしろ、スポーツに不正がつきものの国の方が、「国民への政治教育の面では望ましいのではないか」、そんな嫌みも言いたくなる。
小川、田中、鹿野、筒井。彼等にレッドカードを出すのは、勝手に審判を買って出ているマスコミではない、我々有権者なのだ。真の審判は我々なのだ。
これ以上、試合を穢され、「神聖なスポーツ」そのものを穢されてなるものか。有り余るレッドを突き付ける日が、一日も早く来ることを願って、より一層の熱意を込めて「偏向審判」どもを糾弾していこう。
かつてマスコミ人士の口癖は、「政権党だから批判する、与党だから批判するのであって、自民党だからこれをしている訳ではない。政権が変われば、またその時の与党を批判するのだ。それが我々の仕事だ」と豪語していた。
それが「全くの嘘であった」ことを、つくづく思い知らされたこの三年である。普通に新聞を読み、普通にテレビを見て、普通にものを考えられる人ならば、その証拠はまさに山のように見出せる。それでもなお、この点に疑義を感じる人は、何処かが狂っているのである。「与党とは自民党の別名だ」と未だに信じている人がいるようだが、まさにこのレベルの人なのであろう。
ここまで酷くはなくても、未だに「現状のマスコミの存在を肯定している人」は多いようである。問題は深刻なのである。何故なら、多くの国民はマスコミを「野球の審判」だと思っているのである。試合の流れを円滑にし、選手間で揉め事が生じれば仲裁する。その程度の存在だと思っているのである。
「審判が試合を決める」とは考えていないのである。
審判がどんなに叫んでも、フェンスを越えていけばホームランである。頭にボールをぶつければデッドボールである。場合によっては即退場である。誰がやったところで、余程の微妙なプレーでも重ならない限り、試合はほぼ自動的に流れていく。
ところがサッカーは違う。審判の存在は決定的である。十億人が目の前で見た劇的ゴールシーンも、「今のはオフサイド」とコールすれば、それで終わりである。密集状態の中で、「誰かが誰かを殴った」としてレッドを出せば一発退場である。チームスポーツの基本である参加人数すら不均衡に出来るのである。
ゴール前での揉め事なら、極めて決定率の高いペナルティキックを、好きなチームの方に「プレゼント」することも出来る。一点を争うサッカーというゲームの中で、審判はその一点を左右する。どうにでも出来るのである。
マスコミは「野球の審判」ではない。
「サッカーの審判」なのである。
政治状況をどのようにも動かせる。国民がこの審判を公平中立だと信じている限り、彼等は試合をコントロール出来る。その結果を左右することが出来るのである。
麻生政権時代と、民主党政権を比較してみればいい。
この「審判」が、どれほど偏った異常な連中であるか。
「法と証拠に基づいて」が決まり文句の人々は、この決定的な「証拠」の山を何と見る。毎日毎日、何を言っても、何をやっても、プレーの無効を宣言し、審判の領域を遙かに越えて試合の進行にまで口を挟み、真正面からゴールネットに突き刺さった「歴史的ゴール」さえもこれを無いことにしていた。
彼等の言動に釣られて、心無い国民は「チームを批判」し、「点の取れないフォワードだ」と叫び、「護れないディフェンスだ」と罵倒していた。それが麻生政権時代であった。
一転して今はどうか。そもそも試合に出る資格も技量も無い子供が、俺も俺もと「日本代表の座」を不法占拠している。国際会議の末席を穢しては、「W杯出場だ!」とはしゃいでいる。スポーツとは決して相容れない、裏社会の人間までピッチに立たせている。買収も脅迫も日常茶飯のこととなった。遂には観客にま襲い掛かる始末である。
マスコミの重要性は如何ばかりか。
社会の全容を知る人には無用の長物である。
裏の力学に詳しい人にも無用の長物である。
しかし、騙され易い人達には、マスコミはその詐欺師としての力量を存分に発揮する。その結果、公平中立な人間の鏡、社会の木鐸として映るのである。審判は買収されもする、元より公平でも中立でもない、と考えて試合全体を厳しく見詰める観客と、審判に全幅の信頼を寄せ、その行動の全てを信じ、少なくとも悪意の無いことだけは徹底的に信じて、個々のプレーを見ようとしない、検証しようともしない観客と、果たしてどちらがまともなのか。むしろ、スポーツに不正がつきものの国の方が、「国民への政治教育の面では望ましいのではないか」、そんな嫌みも言いたくなる。
小川、田中、鹿野、筒井。彼等にレッドカードを出すのは、勝手に審判を買って出ているマスコミではない、我々有権者なのだ。真の審判は我々なのだ。
これ以上、試合を穢され、「神聖なスポーツ」そのものを穢されてなるものか。有り余るレッドを突き付ける日が、一日も早く来ることを願って、より一層の熱意を込めて「偏向審判」どもを糾弾していこう。