夕刻の備忘録 様のブログより。
この二年間、マスコミが中心になり煽りに煽ってきた「改革ブーム」が本格的に浸透した。遂に政治家も国民も、誰も疑う者が居なくなった。またしても「新しい魔法の言葉」が誕生したわけである。
国民に増税を御願いする以上、政治家自らが身を切って……
もう嫌という程、この手の話を聞かされている。また周りを見渡しても、もちろんマスコミの仕込みインタビューにしても、全てがこの「論調一色」である。日頃は、世間知らずの得手勝手、我が儘三昧の連中までもが、何故かこの台詞を口にする。本心は兎も角として、誰も彼もが口にしている。これをオカシイと思わない国民は、既に相当オカシイのではないか。
政治家は不幸の売人なのか?
政治家が定数を削減させると「身を切る改革」なのか。
当選する人間は当選する、落選する人間は落選する。
この事実の何処に身を切る部分があるというのだ。
相も変わらず、組織選挙の上手い者が果実を得るだけだろう。
それで何が、誰が身を切るというのか。
官僚が給料を減らされた、採用が見送られた。それが一体、我々の何に影響するというのか。議員定数が削減されて、官僚の給与が減ると、我が家の食卓が豪華にでもなるというのか。雇用が生まれるとでもいうのか。年金が増えるとでもいうのか。
「俺」と「オマエ」、そして好景気と不景気を混ぜれば
1.俺は好景気、オマエも好景気。
2.俺は好景気、オマエは不景気。
3.俺は不景気、オマエは好景気。
4.俺は不景気、オマエも不景気。
の四種類が出来る。「俺」が政治家で、「オマエ」が我々国民である。政治家とは、国家を富ませ、国民に好景気を実感させるように、経営するのがその手腕ではないのか。「一番」こそが政治家であろう。
オマエら好景気でゴキゲンだろう、だから「俺達も一寸ばかり好い思いをさせて貰うぞ」として、いかがわしいことに手を出し、国税を無駄に使い、そして時々牢屋に入る。それが嘗ての政治家であった。彼等を非難することは容易い。しかし、少なくとも国民に不幸を強いることはなかった。「四番」など有り得なかった。
「国民よ富め、その分だけ俺達も儲けるから」そう考え、そう実行して堂々としていた。密室・談合・大企業優先の長老政治と揶揄されようと確実に食卓は豪華になったのだ。
しかし、今の政治家は一体何だ。「俺達も我慢するから、国民も我慢しろ」、こんな台詞を白昼堂々と吐いている。何故、政治家が我慢すれば、国民も我慢しなければならないのか。我が儘勝手から言うのではない。政治家としての「根本的な考え方」を間違えているのではないか、と問うているのだ。「四番」は政治家の言う台詞ではないのだ。
政治家は勝手に身でも何でも切るがいい。しかし、それを理由に何故国民も共同責任を負わされるのか。政治の誤りを、何故国民につけ回して、そこまで平然としていられるのか。今は景気回復、デフレ脱却が第一の課題であるはずだ。俺も儲ける、オマエも儲けろ、俺も頑張る、オマエも頑張れのはずだ。それがどうだ、腐った野菜のような顔をした連中が、「私も耐えますから、皆さんも耐えて下さい」とは何事だ。
時の副総理とやらに、実家の一日店長でもやらせてみろ、間違いなく売上げは半分以下に落ち込むだろう。そもそも顔が不景気なのだ。性格が陰湿なのだ。不景気ズラで陰湿な人間が、何を語ったところで、国民はウンザリするだけだ。そんな貧乏神が、なお我々に我慢を強いるのである。実家の売上げでも伸ばしてから出直してこい!
★ ★ ★ ★ ★
政治家が先頭に立つとは、国民に幸福をもたらす為であろう。不景気を納得させる為ではないはずだ。歳費を削って、公務員の採用を絞って、それが国家の将来の何に繋がるというのか。そんな下らないことを要求して、それが一部でも叶ったといって溜飲を下げている国民がいることが信じられない。この種の人々は、自分だけ不景気なのが我慢出来ず、死なばもろともで、他人を巻き込めばそれで満足なのか。
公務員採用を絞れば、それだけ雇用が減る。その一方で、偏差値上位の学生達は、何処の企業でも受け入れる。そして何より彼等は試験に強い。その結果、本来なら就職出来た青年達も、その煽りを食って、弾き飛ばされるのである。公務員の採用削減は、極めて切実であり、公務員志望の学生以外をも巻き込む大問題なのである。
仕分け、仕分けと狂ったように踊りまくり、ダムを潰し、備蓄を崩し、あらゆる予算を切りまくって、その結果、今の不景気をより深刻なものにした。同じ轍を今もまた踏んでいるのである。平気な顔で「雇用までも仕分け」しているのだ。
いい加減に目を覚まそう。政治家が何人廃業したところで、それが「身を切る改革」などではないことを。政治家が身を切ったとて、国民まで一蓮托生では、何の為の政治か分からないではないか。汚い政治家の首一つと取引して、安易に増税を認めるなど、実に情緒的な「片思いの妄想」であることを知るべきだ。
「定数削減などという下らないことをする前に、先ずは景気をよくしてみろ、先ずは雇用を増やしてみろ、話はそれからだ」と国民は訴えるべきなのである。不景気容認、増税容認では政治家や官僚の首を何人獲ったところで、我が家の食卓は賑わわないのだ。
デフレスパイラルは「不幸のスパイラル」である。この悪循環を断ち切れるのは、嘗ての「悪徳政治家」よろしく、一緒に儲けようぜ、と明るく強く切り出せる経済に強い政治家だけである。少々の不正があってもよい、裏で儲ける奴が出てもいい、その半面で巨大な効果を齎す政策なら、今は甘んじて受け入れるべきなのだ。
「誰一人として裏で儲ける奴は許せん」と息巻けば息巻くだけ、締まるのは自分の首であることを、国民は知るべきである。経済は総額の決まったぶんどり合戦ではない、新しく富を生み出し、増やすことが出来る、上限の定かでない「生き物」なのだ。
誰かが儲けても、それが自分の取り分を直接減らすわけではない。むしろ増やす効果すら存在するのだ。今は政治家や官僚の倫理を論じている暇は無い、乗数効果こそ論じるべき時なのだ。経済は生き物だ、その生き物を殺して平然としている政治屋どもに、未来を託す危険性をもっともっと深刻に考えるべき時なのだ。
国民に増税を御願いする以上、政治家自らが身を切って……
もう嫌という程、この手の話を聞かされている。また周りを見渡しても、もちろんマスコミの仕込みインタビューにしても、全てがこの「論調一色」である。日頃は、世間知らずの得手勝手、我が儘三昧の連中までもが、何故かこの台詞を口にする。本心は兎も角として、誰も彼もが口にしている。これをオカシイと思わない国民は、既に相当オカシイのではないか。
政治家は不幸の売人なのか?
政治家が定数を削減させると「身を切る改革」なのか。
当選する人間は当選する、落選する人間は落選する。
この事実の何処に身を切る部分があるというのだ。
相も変わらず、組織選挙の上手い者が果実を得るだけだろう。
それで何が、誰が身を切るというのか。
官僚が給料を減らされた、採用が見送られた。それが一体、我々の何に影響するというのか。議員定数が削減されて、官僚の給与が減ると、我が家の食卓が豪華にでもなるというのか。雇用が生まれるとでもいうのか。年金が増えるとでもいうのか。
「俺」と「オマエ」、そして好景気と不景気を混ぜれば
1.俺は好景気、オマエも好景気。
2.俺は好景気、オマエは不景気。
3.俺は不景気、オマエは好景気。
4.俺は不景気、オマエも不景気。
の四種類が出来る。「俺」が政治家で、「オマエ」が我々国民である。政治家とは、国家を富ませ、国民に好景気を実感させるように、経営するのがその手腕ではないのか。「一番」こそが政治家であろう。
オマエら好景気でゴキゲンだろう、だから「俺達も一寸ばかり好い思いをさせて貰うぞ」として、いかがわしいことに手を出し、国税を無駄に使い、そして時々牢屋に入る。それが嘗ての政治家であった。彼等を非難することは容易い。しかし、少なくとも国民に不幸を強いることはなかった。「四番」など有り得なかった。
「国民よ富め、その分だけ俺達も儲けるから」そう考え、そう実行して堂々としていた。密室・談合・大企業優先の長老政治と揶揄されようと確実に食卓は豪華になったのだ。
しかし、今の政治家は一体何だ。「俺達も我慢するから、国民も我慢しろ」、こんな台詞を白昼堂々と吐いている。何故、政治家が我慢すれば、国民も我慢しなければならないのか。我が儘勝手から言うのではない。政治家としての「根本的な考え方」を間違えているのではないか、と問うているのだ。「四番」は政治家の言う台詞ではないのだ。
政治家は勝手に身でも何でも切るがいい。しかし、それを理由に何故国民も共同責任を負わされるのか。政治の誤りを、何故国民につけ回して、そこまで平然としていられるのか。今は景気回復、デフレ脱却が第一の課題であるはずだ。俺も儲ける、オマエも儲けろ、俺も頑張る、オマエも頑張れのはずだ。それがどうだ、腐った野菜のような顔をした連中が、「私も耐えますから、皆さんも耐えて下さい」とは何事だ。
時の副総理とやらに、実家の一日店長でもやらせてみろ、間違いなく売上げは半分以下に落ち込むだろう。そもそも顔が不景気なのだ。性格が陰湿なのだ。不景気ズラで陰湿な人間が、何を語ったところで、国民はウンザリするだけだ。そんな貧乏神が、なお我々に我慢を強いるのである。実家の売上げでも伸ばしてから出直してこい!
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政治家が先頭に立つとは、国民に幸福をもたらす為であろう。不景気を納得させる為ではないはずだ。歳費を削って、公務員の採用を絞って、それが国家の将来の何に繋がるというのか。そんな下らないことを要求して、それが一部でも叶ったといって溜飲を下げている国民がいることが信じられない。この種の人々は、自分だけ不景気なのが我慢出来ず、死なばもろともで、他人を巻き込めばそれで満足なのか。
公務員採用を絞れば、それだけ雇用が減る。その一方で、偏差値上位の学生達は、何処の企業でも受け入れる。そして何より彼等は試験に強い。その結果、本来なら就職出来た青年達も、その煽りを食って、弾き飛ばされるのである。公務員の採用削減は、極めて切実であり、公務員志望の学生以外をも巻き込む大問題なのである。
仕分け、仕分けと狂ったように踊りまくり、ダムを潰し、備蓄を崩し、あらゆる予算を切りまくって、その結果、今の不景気をより深刻なものにした。同じ轍を今もまた踏んでいるのである。平気な顔で「雇用までも仕分け」しているのだ。
いい加減に目を覚まそう。政治家が何人廃業したところで、それが「身を切る改革」などではないことを。政治家が身を切ったとて、国民まで一蓮托生では、何の為の政治か分からないではないか。汚い政治家の首一つと取引して、安易に増税を認めるなど、実に情緒的な「片思いの妄想」であることを知るべきだ。
「定数削減などという下らないことをする前に、先ずは景気をよくしてみろ、先ずは雇用を増やしてみろ、話はそれからだ」と国民は訴えるべきなのである。不景気容認、増税容認では政治家や官僚の首を何人獲ったところで、我が家の食卓は賑わわないのだ。
デフレスパイラルは「不幸のスパイラル」である。この悪循環を断ち切れるのは、嘗ての「悪徳政治家」よろしく、一緒に儲けようぜ、と明るく強く切り出せる経済に強い政治家だけである。少々の不正があってもよい、裏で儲ける奴が出てもいい、その半面で巨大な効果を齎す政策なら、今は甘んじて受け入れるべきなのだ。
「誰一人として裏で儲ける奴は許せん」と息巻けば息巻くだけ、締まるのは自分の首であることを、国民は知るべきである。経済は総額の決まったぶんどり合戦ではない、新しく富を生み出し、増やすことが出来る、上限の定かでない「生き物」なのだ。
誰かが儲けても、それが自分の取り分を直接減らすわけではない。むしろ増やす効果すら存在するのだ。今は政治家や官僚の倫理を論じている暇は無い、乗数効果こそ論じるべき時なのだ。経済は生き物だ、その生き物を殺して平然としている政治屋どもに、未来を託す危険性をもっともっと深刻に考えるべき時なのだ。