建国」から80年(3)湖畔の理想郷
命がけで学校建設に邁進
東京都世田谷区で小学校校長などをつとめた北村稔子は平成11年8月、兄夫婦や妹ら7人で中国を訪ねた。
北京から瀋陽経由で黒龍江省の牡丹江市へ向かう。そこからバスで松花江支流の牡丹江に沿うように南下、鏡泊(きょうはく)湖という大きな堰(せき)止め湖の湖畔に着いた。
牡丹江市からはかなりの悪路だった。当時69歳で足も痛む女性にはつらい旅だったが、どうしても訪ねなければならない理由があった。北村の父、山田悌一が昭和8年、命がけで創設した「満州鏡泊学園」があった地だからだ。
◆自給自足と協力
宮崎県都城市出身の山田は大正4年、東洋協会専門学校(現拓殖大学)支那語科を卒業している。その後中国大陸に渡り、満蒙独立運動に参加した。
帰国後は国士舘の創設に加わり学校経営に当たるが、昭和7年満州国が建国されると渡満し、新しい学校建設に邁進(まいしん)する。
この年の11月発表された設立趣意書に添えた学園規定は、その目的をこう定めた。
「大亜細亜主義を抱懐する青年を陶冶(とうや)鍛錬し、満州建国の理想成就に献身すべき模範的人材を養成する」。農業を中心に学び「自給自足と協力を原則」とする理想的学園村をつくろうとしたのだ。
翌8年3月、東京で最初の入学試験を行い、約200人の1期生を選び、8月に満州に渡る。しかし学園建設地に選んだ鏡泊湖畔は首都・新京(現長春)から300キロも東に離れており、治安が安定していなかった。
このため関東軍に守られた湖畔での開校は9年春にまでずれ込んだ。だが校舎の建設から始めた教官や学生たちの新天地への意気は高かった。
法政大学から鏡泊学園に転じ、後に2期生の教官役に指名される結城吉之助の『自叙伝』によれば、山田は朝礼でこんな講話をしたという。
「われわれは今、数千年前の父祖の地に戻ってきたのである。同じ血が流れているこの土地の人々と共に、ここを墳墓の地と定め、満州国を建国して、五族協和の精神を実践しなければならない」
だがその山田はこの年の5月16日、県庁のある寧安へ行った帰り武装勢力に襲われ、42歳の命を落とした。
北村稔子はこのときまだ4歳だった。父のこともほとんど記憶にない。しかも父の死で一家は路頭に迷い母親以下、生活の苦労を背負い込むことになる。
だが、父が文字通り命を賭して学園作りを目指した満州の地を訪ね「できることではない」とその情熱に打たれたという。
湖畔に学園の存在をうかがわせるものは何もなかった。ただ学園が農場として続いていたころ、父親がこの地域の村長だったという中国人が近くに住んでいた。
その父親は戦後、日本に加担したとして処刑されそうになった。それを最後まで残っていた日本人が弁護してくれ助かったという話をしていたという。
◆開設3年で解散
山田の死で支柱を失った学園は財政的にも理論的にも行きづまり関東軍の命により、開設3年で解散の憂き目にあう。学生たちはそのまま日本に帰るか、満州の別の地に入植する、あるいは鏡泊湖畔に残り営農を続ける者とにほぼ3分された。
結城は学園解散後、召集を受けて朝鮮の連隊に入営する。除隊後は再び満州に戻り、満州国の官吏などをつとめ、戦後、苦労して故郷の山形に引き揚げた。
鏡泊学園時代や官吏時代に培ったリーダーシップを生かして政治家を目指し、山形県議や村山市長などをつとめている。
仲間3人とともに、満州国の最西北部、ソ連との国境に近い三河に入植した岡部勇雄は酪農を営むことになる。終戦時は応召中だったが、引き揚げた後、その時の経験を生かし、栃木県那須高原に南ケ丘牧場を開く。
現在は観光牧場として有名になり、長男に、そして孫へと経営が引き継がれている。
結城にしても岡部にしても、満州でやり残した仕事を日本の国内で実現させようとしていたように思えてならない。
日本に帰ってきた学園出身者たちは結城や岡部らが中心となり、北村稔子も交えて「鏡友会」を結成した。南ケ丘牧場に山田らの慰霊碑を建て、毎年1回ここに集まってきたという。
北村によると、当時の「現役」は湖畔に残った人の妻だけとなった。2世、3世たちが父親たちのことを語り合う。それでも「満州は遠くなりけり」の感は隠せないようである。=敬称略(皿木喜久)
湖畔に理想の学園村建設を目指した鏡泊湖=中国・黒龍江省(北村稔子さん提供)