夕刻の備忘録 様のブログより。
「素人」が社会を席巻している。
専門家が侮辱され、素人が礼賛される。
政治の世界は昨今とりわけこの傾向が強い。
「他分野からの進出が期待される」など甘い勧誘も絶えない。
専門家が侮辱され、後ろに追いやられる社会は間違いなく「独裁社会」になる。何故なら、独裁を止めるのは、少なくともその切っ掛けを作るのは「専門家の指摘」によるからである。国民の声がどうの、その行動がどうのと言ったところで、端緒を切り開くのは、法を悪用して支配を強めようとする連中の欺瞞を追求する、追求出来るだけの能力を持った「専門家の仕事」だからである。これがなければ一般の国民は気付くことすらないままに、騙され続けて終わってしまうだろう。
よって、独裁を目指す者達は「専門家」を敵視する。
素人こそ「新しい社会の担い手だ」と持ち上げる。
専門家は視野が狭く、盲点が多く、新鮮な発想に欠ける、その点素人は……と世論誘導を試みる。顎の下を擽られてゴキゲンの「素人達」は、遂に「私達の時代が来た」とばかりに大はしゃぎで、専門家退治にやっきになる。
「はじめは誰でも素人だから」「知識と経験を積めば立派にこなせるはずだ」などと論理矛盾を平然と垂れ流す。素人に「知識と経験」を期待するなら、最初からプロに頼めばいいではないか。
しかし、本当に「はじめは誰でも素人」なのか?
この点に違和感を感じる人が余りにも少ない。
「知識と経験だけ」では、決してプロにはなれない。
最大の資質は「志」である。その高さである。
「栴檀は双葉より香し」は真理である。
その意味で「本物は最初から本物」であり、はじめからプロなのである。「はじめは誰でも素人」ではないのだ。このことを無視した、あるいは認めたがらない人達が余りにも多い。
これは若年時の「修行」がものをいう職業のことを考えればすぐ分かる。囲碁・将棋の名人は小学生時代、それを志した瞬間からプロである。トップアスリートは、生まれてはじめてその競技をした日から、将来の自身のあるべき姿を頭の中に完全にイメージしたプロである。見た目は子供でも志は最初からプロなのだ。だからこそ過酷な「修行」に耐えられたのだ。
彼等の口から「子供だからこの程度にしてくれ」などという泣き言が発せられたことは一度もない。本物を目指す人間は、それを目指す志があるが故に、既にその瞬間から本物であり、「素人であった時期」などないのである。
★ ★ ★ ★ ★
衆議院議員に素人は要らない。
多種多様な経験や、他の分野での見識も要らない。
それを補完し、それを叶える為に参議院がある。
衆議院議員は徹底した「プロ」であるべきだ。子供の頃から、政治に志を立てた瞬間から、脇目も振らずに国家の問題に苦悩してきたプロであるべきなのだ。「国家観」云々は、こうしたところから問われるべき問題である。他分野からの転向組は無用である。
国家の行く末を案じ、日本国の国柄を学び、自己を抑制する技術を体得し、国民の誰とも等しく会話して、相手の抱える問題を逸早く理解し、対応策を提案し、官僚を超える知識と決断力を身に附けて、国難に当たっては自らの一命を賭けて国家国民の為に殉じて悔いない人物。
そんな人間が、一朝一夕に現れるものか。元々政治に興味も関心も無かった人間が、何の切っ掛けかは知らぬが、ノコノコ参入してきて、それでこれだけの資質を備えることが出来るものか、出来ないものか、少しでも考えれば分かりそうなものである。
簡単な判定基準がある。
民主党の議員の大半が「×」だろう。
それは日本の地理である。
都道府県名を全て言える議員は、どれほど居るか。離島の位置関係を言える議員は、どれほど居るか。年号を、その歴史を、国宝の、文化遺産の在処を知っている議員はどれほど居るか。多くの議員は聞くまでもなく落第である。
地元の有権者の顔色しか見ず、支援組織の幹部としか話しもせず、党本部の言いなりに「街頭演説」とやらをやって、当たり障りのない話を、他党の悪口を、誰でも欲しがる手当のことを、年金のことを、まるで自分が全て改善出来るかの如く虚言をならべていれば当選出来るのである。国家の何たるかなど、一秒たりとも考えたことのない人間が、「私にも出来ます」「私にやらせて下さい」と軽い頭を下げてありついた「腰掛け仕事」なのである。
最後に実例を挙げておこう。「九州の出身だから東北のことは知らない」と嘯いた震災担当大臣がいたのを覚えておられるだろう。棚からボタモチ、生まれてから一度も閣僚になるための修練など、考えてみたこともない人間が、政治に関わるとこういう話になるのである。今の政府に、子供の頃から今日あることを信じて、徹底的な自己抑制を課してきた人間が一人でもいるか。
少しでも批判されれば取材拒否、困難に遭遇すれば他人の所為。最後の最後は「理解しない国民が悪い」と吠える頭のオカシイ連中ばかりではないか。これは全て、「素人礼賛」が招いた悲劇であり、その奥でほくそ笑んでいる奴がいることを、我々は決して忘れてはならない。
素人礼賛の社会は、ある朝突然終わりを告げる。完全武装した「抑圧の専門家達」が、街を占拠し、家庭に入り込む。これが、世界のいたるところで、今も現実に行われている「人類史」の一部である。日本だけがそうならない保証など、何処にもないのだ。
専門家が侮辱され、素人が礼賛される。
政治の世界は昨今とりわけこの傾向が強い。
「他分野からの進出が期待される」など甘い勧誘も絶えない。
専門家が侮辱され、後ろに追いやられる社会は間違いなく「独裁社会」になる。何故なら、独裁を止めるのは、少なくともその切っ掛けを作るのは「専門家の指摘」によるからである。国民の声がどうの、その行動がどうのと言ったところで、端緒を切り開くのは、法を悪用して支配を強めようとする連中の欺瞞を追求する、追求出来るだけの能力を持った「専門家の仕事」だからである。これがなければ一般の国民は気付くことすらないままに、騙され続けて終わってしまうだろう。
よって、独裁を目指す者達は「専門家」を敵視する。
素人こそ「新しい社会の担い手だ」と持ち上げる。
専門家は視野が狭く、盲点が多く、新鮮な発想に欠ける、その点素人は……と世論誘導を試みる。顎の下を擽られてゴキゲンの「素人達」は、遂に「私達の時代が来た」とばかりに大はしゃぎで、専門家退治にやっきになる。
「はじめは誰でも素人だから」「知識と経験を積めば立派にこなせるはずだ」などと論理矛盾を平然と垂れ流す。素人に「知識と経験」を期待するなら、最初からプロに頼めばいいではないか。
しかし、本当に「はじめは誰でも素人」なのか?
この点に違和感を感じる人が余りにも少ない。
「知識と経験だけ」では、決してプロにはなれない。
最大の資質は「志」である。その高さである。
「栴檀は双葉より香し」は真理である。
その意味で「本物は最初から本物」であり、はじめからプロなのである。「はじめは誰でも素人」ではないのだ。このことを無視した、あるいは認めたがらない人達が余りにも多い。
これは若年時の「修行」がものをいう職業のことを考えればすぐ分かる。囲碁・将棋の名人は小学生時代、それを志した瞬間からプロである。トップアスリートは、生まれてはじめてその競技をした日から、将来の自身のあるべき姿を頭の中に完全にイメージしたプロである。見た目は子供でも志は最初からプロなのだ。だからこそ過酷な「修行」に耐えられたのだ。
彼等の口から「子供だからこの程度にしてくれ」などという泣き言が発せられたことは一度もない。本物を目指す人間は、それを目指す志があるが故に、既にその瞬間から本物であり、「素人であった時期」などないのである。
★ ★ ★ ★ ★
衆議院議員に素人は要らない。
多種多様な経験や、他の分野での見識も要らない。
それを補完し、それを叶える為に参議院がある。
衆議院議員は徹底した「プロ」であるべきだ。子供の頃から、政治に志を立てた瞬間から、脇目も振らずに国家の問題に苦悩してきたプロであるべきなのだ。「国家観」云々は、こうしたところから問われるべき問題である。他分野からの転向組は無用である。
国家の行く末を案じ、日本国の国柄を学び、自己を抑制する技術を体得し、国民の誰とも等しく会話して、相手の抱える問題を逸早く理解し、対応策を提案し、官僚を超える知識と決断力を身に附けて、国難に当たっては自らの一命を賭けて国家国民の為に殉じて悔いない人物。
そんな人間が、一朝一夕に現れるものか。元々政治に興味も関心も無かった人間が、何の切っ掛けかは知らぬが、ノコノコ参入してきて、それでこれだけの資質を備えることが出来るものか、出来ないものか、少しでも考えれば分かりそうなものである。
簡単な判定基準がある。
民主党の議員の大半が「×」だろう。
それは日本の地理である。
都道府県名を全て言える議員は、どれほど居るか。離島の位置関係を言える議員は、どれほど居るか。年号を、その歴史を、国宝の、文化遺産の在処を知っている議員はどれほど居るか。多くの議員は聞くまでもなく落第である。
地元の有権者の顔色しか見ず、支援組織の幹部としか話しもせず、党本部の言いなりに「街頭演説」とやらをやって、当たり障りのない話を、他党の悪口を、誰でも欲しがる手当のことを、年金のことを、まるで自分が全て改善出来るかの如く虚言をならべていれば当選出来るのである。国家の何たるかなど、一秒たりとも考えたことのない人間が、「私にも出来ます」「私にやらせて下さい」と軽い頭を下げてありついた「腰掛け仕事」なのである。
最後に実例を挙げておこう。「九州の出身だから東北のことは知らない」と嘯いた震災担当大臣がいたのを覚えておられるだろう。棚からボタモチ、生まれてから一度も閣僚になるための修練など、考えてみたこともない人間が、政治に関わるとこういう話になるのである。今の政府に、子供の頃から今日あることを信じて、徹底的な自己抑制を課してきた人間が一人でもいるか。
少しでも批判されれば取材拒否、困難に遭遇すれば他人の所為。最後の最後は「理解しない国民が悪い」と吠える頭のオカシイ連中ばかりではないか。これは全て、「素人礼賛」が招いた悲劇であり、その奥でほくそ笑んでいる奴がいることを、我々は決して忘れてはならない。
素人礼賛の社会は、ある朝突然終わりを告げる。完全武装した「抑圧の専門家達」が、街を占拠し、家庭に入り込む。これが、世界のいたるところで、今も現実に行われている「人類史」の一部である。日本だけがそうならない保証など、何処にもないのだ。