政治家に「国家観」は不要である。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






夕刻の備忘録 様のブログより。





政治家に「国家観」は必要か、その答が本日の主題である。

「無用であり、有害ですらある」というのが結論である。
少なくとも現時点、現政権下で口にすべき言葉ではない。

そもそも国家観とは何か。

国の生い立ちを知り、国柄を知り、過去の歴史に照らして今日を明日を如何に生きるか。そして祖国を如何に受け継いでいくか、その認識が主たるものであろう。

そこで再び結論を書く:
政治家に「国家観」は不要である。
国家観が必要なのは国民の方である。

国民こそが今日を明日を生きる祖国の何たるかを学び、そして自らの直接の先祖及び子孫、加えて周辺環境をも含めた全体である「国家」に対する切実な責任感をもって、その信じるところを堂々と開陳出来るだけの教養を身に付けねばならない。

何度も繰り返し書いてきたことであるが、政治家の靖國参拝や、ましてや総理大臣の靖國参拝が何か特別の問題であるかの如く言い募り、参拝しなければ保守ではないだとか、参拝しなければ支持できないだとか、ましてや靖國参拝を行えば我が国のサイレントマジョリティが立ち上がるなどという幻想は、そろそろ卒業して頂きたい。

靖國に参拝し報恩の誠を尽くすのは、我々国民の役目であり、政治家はその付け足しに過ぎない。主客が全く転倒している。総理大臣が靖國に参拝しようがしまいが、年始に百万国民が九段下を埋め尽くせば、駅舎に身動き出来ないほどの人が集まれば、それで文句を付ける国は無くなるのである。

政治家がしなければ何も出来ないような話は慎むべきだ。
政治家がすれば事態は進むという幻想は捨てるべきだ。

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政治家に「国家観」は無用である。

自民党にはそれがない、だからこそ支持出来る。
自民党は地方政党であり、地域の意見集約政党である。
従って、国家観を持った国民の声を集めて、それが党是になる。
だから要らないのである。だからこそ信頼出来るのである。
国民が長く執拗に訴え続ければ、やがては党の声になるのである。

一方、民主党には「国家観」がある。
目指すは社会主義国家である。手本は中共政府である。
驚くほど明確な「国家観」ではないか。
国家解体、破壊こそが彼等の「国家観」である。
自虐史観こそ彼等の「国家観」である。
地方の意見も、国民の意見も何の関係もない。
党員個々人が信じる政治信条こそが全てである。
国民が何を訴えたところで、それは票に換算されるだけだ。
それが党の声などになるはずもない。
党には既に明確な「国家観」があるからだ。

大阪の市長にも「国家観」がある。破天荒な公約を掲げ、これに反対する人間は「ダメな日本と共に滅びればいい」と公言する。それが市長の「国家観」である。「自分の意見に賛同しない者は滅びればいい」と嘯くのが御当人の国民への意識なのである。

何処の誰が一体、外国人参政権や人権擁護法案を、参議院廃止や首相公選制をリクエストしたというのだ。何処にそんな議論の高まりがあるというのだ。国民の意識とは全く別次元の問題設定をして、それが気に入らなければ「責任が持てない」だとか、「滅びればいい」だとかと嘯く人間に、「見捨てられる側の国民」は一体何を期待しているのか。

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僅かにこれだけの例を挙げても、政治家に「国家観」が如何に無用であるか、如何に弊害が多いかが分かるだろう。しかし、こう書けば「それは国家観という言葉の曲解に基づく偏見である」という異論が出るだろう。確かにそうかもしれない。

しかし、最初に書いたように、「少なくとも現時点、現政権下で口にすべき言葉ではない」理由は、多くの国民がまさに「曲解」しているからである。多くの国民、特に浮動票と呼ばれる人々は、民主党にこそ「国家観」があって、自民党にはそれがない。大阪の市長は立派な政治見識を持っており、国会議員にはそれがないと信じているからである。マスコミを通して、そう信じ込まされているからである。

彼等にとって、「国家観」とは「それが破壊の対象であれ何であれ、具体的な事例として国家規模の問題が語られること」なのだ。消費税は国の問題だ、消費税を上げようとする民主党は、国の将来を考えている。社会保障は国民すべての問題だ、だから民主党は「国家観」がある。大阪都や道州制は国柄を変える、だから市長には「国家観」がある。全く留まることのないこの連鎖が、「国家の破壊者を国家観をもった優秀な政治家」と誤認させているのである。

従って、こうした論点から彼等を批判したところで無駄であり、むしろ彼等に利すること多であろう。驚天動地の選挙公約を「的確に批判した」ところで、批判側が「国家観を持たず大所高所からの政治を論じ得ない愚物である」との烙印を押されるだけなのだ。

従って今現在、国家観を論点に据えて議論を行うことは、全く無益であり有害である。とりわけ保守系を自認する人達が声高にこれを訴え、浮動層の開拓を行うとすれば、派手さでは遙かに勝る彼等を利するだけである。

「今後二十年を掛けて、次代の日本の政治経済の在り方を論じ、国民の意見を集約していきましょう」という真面目な提案と、「中央の政治家はみんなクズだ、彼等が反対することこそ我々が正しい証拠だ。官僚も多すぎる、既得権を手放さない連中は豚箱に放り込め」というヤクザの口上と、果たしてどちらが今の浮動層に入り込めるか、その結論は既に出ているのである。

繰り返す、国家観を持つべきは政治家にあらず我々国民である。そして既に「国家観」は敵の手に落ちた、泥塗れの言葉なのである。保守を任じる政治家ならば、この点を深く理解し、敵に塩を送らないように最大限留意すべきである。あの岡田の不誠実、あのマエハラの無責任が、「首相に相応しい人物」に見える現状なのだ。詐欺師を相手に戦うのである。正攻法が、正論が通用しないことぐらい、もうそろそろ理解しては如何か。