【決断の日本史】672年6月24日
「壬申の乱」首謀者は持統天皇?
「壬申の乱」といえば、古代最大の内乱である。大海人(おおあまの)皇子(のちの天武天皇)が兄・天智天皇の長子、大友皇子を打ち破った戦いだった。
なぜ、大海人皇子は決起したのか。勝因は何だったのか。古くから謎解きが続けられてきた。天智帝が大海人に代えて大友に皇位(大王位)を譲ろうとしたことに大海人が危機感を抱き、吉野に籠もって準備を整え、挙兵したという説がよく知られている。
しかし、倉本一宏・国際日本文化研究センター教授(日本古代史)は5年前の著書『壬申の乱』の中で、そうした見方を否定した。
「天智帝は大海人に皇位を譲ろうとしていたと思います。大友は母が身分の低い地方豪族の娘なので、天皇にはできない。だから大海人を中継ぎにして、その後を大友の息子に継がせようとしたのではないでしょうか」
であれば、大海人は禅譲を待てばよかったはずだ。そうしなかったのは、妃の●野(うのの)皇女(持統天皇)の働きかけがあったからと倉本教授は言う。
「●野皇女と大海人の間には、草壁皇子が誕生していました。母として、何としても草壁に皇位を伝えたい。大友の息子には渡したくないと、夫を説得したのだと思いますね」
672年6月24日、大海人皇子は吉野を脱出した。伊賀、伊勢を経て不破道(岐阜県関ケ原町)に至り、近江朝廷軍との決戦を挑んだのだった。美濃など東国の兵を味方につけた大海人軍は、1カ月にわたる戦闘を経て大友皇子を自殺に追い込んだ。
大海人軍のもうひとつの勝因は当時、近江朝廷が唐との外交交渉に忙殺され、警戒を手薄にしてしまったことだった。673年2月、大海人は飛鳥浄御原宮(きよみがはらのみや)で即位、●野皇女を皇后とした。文字通り、「二人三脚」で作り上げた新政権であった。(渡部裕明)
●=慮の心を皿、右に鳥