【決断の日本史】1868年9月22日
京都守護職・松平容保の意地
会津23万石の第9代藩主、松平容保(かたもり)(1835~93年)ほど維新動乱の悲劇を体験した人物はいないのではないか。文久2(1862)年、京都の治安を担う「京都守護職(しゅごしょく)」が設けられると、その任に就いた。重臣たちは「薪を負い火中に飛び込むつもりでしょうか」と大反対した。
当時の京都は尊王攘夷(じょうい)を叫ぶ志士たちが集結し、暗殺や略奪が横行する無法地帯となっていた。容保は千人の家臣団のほか新撰組も配下に置き約5年間、難しい職を務めた。働きぶりは孝明天皇からも深く信頼された。
しかし、薩摩・長州の同盟により倒幕という大きな流れができあがった。「鳥羽・伏見の戦い」で敗れた容保は最後の将軍、徳川慶喜とともに江戸へ逃げ帰る。慶喜がひたすら恭順の姿勢を示したのに対し、容保は徹底抗戦の意思を捨てず、会津に戻った。
会津は藩祖・保科正之が徳川家光の異母弟にあたり、「将軍家への忠勤」を藩是(はんぜ)としていた。その将軍が降伏したのに、容保はなぜ矛(ほこ)を収めなかったのだろう。彼の目には、薩長勢力が天下の大権を私物化しているとしか映らず、許せなかったのではないか。
明治元(1868)年8月23日、新政府軍が会津に攻め込んだ。容保は藩士ら約5千人とともに鶴ケ城(つるがじょう)に籠もった。少年兵が自刃した白虎隊の悲劇などは知られる通りである。
新政府軍約3万の猛攻の前に、籠城軍はよく耐えた。しかし1カ月後の9月22日、容保は降伏を申し出た。京都時代以降、戊辰(ぼしん)戦争での会津藩の死者は約2500人にものぼる。
将軍に裏切られ、「朝敵」の不名誉も受けた容保だったがのち許され、東照宮宮司などを務めた。しかし自らの思いを口にすることはなく、藩士らの菩提(ぼだい)を弔いつつ、明治26年12月5日、59歳で亡くなった。
(渡部裕明)