【土・日曜日に書く】論説委員・鳥海美朗
李登輝氏は思いのほか元気そうだった。昨年11月に受けた大腸がん摘出手術後の経過は順調らしく、89歳の誕生日を2日後に控えて顔のいろつやも悪くなかった。「おーっ」と言いながら、大きな手のひらでこちらの右手を握りかえしたものだ。
台湾総統選の投開票が翌日に迫った1月13日の夜だった。動向が注目された元総統自らが、「台湾独立」を目標とする党綱領をもつ民主進歩党候補、蔡英文氏の集会で応援演説に立つという。接触を試みて台北市内の氏の自宅マンション前で待ち受けたのである。
医師の指示もあり、氏はメディアの取材を一切受け付けていなかった。警護付きの車をほんのひととき止め、窓を開けて声をかけてくれたのは氏らしい気配りだ。
◆3議席得た元総統
蔡英文氏の集会で、李登輝氏は15分間熱弁をふるった。
「台湾は人権と尊厳の国だ。中国に統一される心配はない」
台湾はすでに独立した主権国家である、との立場をとる李登輝氏だが、選挙の争点となった対中関係では慎重に言葉を選んでいたように思う。蔡英文氏が今回の選挙にあたり、「統一でも独立でもなく、基本は現状維持」との現実路線を打ち出したこともあった。
応援演説は実らなかった。総統選では、中国との経済関係強化を促進する現職の馬英九氏(中国国民党主席)が51・6%の票を集め再選を果たした。対中政策があいまいだった蔡英文氏は45・6%にとどまり敗北した。
この中で、総統退任後すでに12年もたつ李登輝氏がしたたかな影響力を発揮した。総統選と同時に実施された立法院(国会、定数113)選の比例代表で、氏を指導者とする台湾団結連盟(台連、2001年結成)が約9%を集め3議席を獲得したのである。
選挙の主役ではない人物のことを長々と書いた。かつては国民党主席を務めながら独立志向に転じ、党籍剥奪の処分を受けた李登輝氏。その自由な発言と政治活動を容認している現在の台湾の政治状況を強調したかったからだ。
◆民意は「現状維持」
選挙を概括すれば、1800万台湾有権者は、国民党の馬政権が主張する「安定した中台関係」による「現状維持」を選んだ。蔡英文氏の「現状維持」には疑問符が付いた分マイナスとなった。
08年に総統に就任した馬英九氏には実績がある。この4年間で中台間の自由貿易協定(FTA)にあたる経済協力枠組み協定(ECFA)を締結し、海峡両岸の直行航空便の実現と大幅増便による観光客の自由往来などを促進した。台湾の輸出市場に占める中国の割合が4割を超える現実を前にすれば、再選はうなずける。
国民党につきまとう「金権政治」のイメージを払拭した潔癖な政治家-との馬英九評も聞いた。
ただし、中国が政治問題は棚上げして経済関係を優先させる一方、「国家統一」の目標は堅持していることを台湾有権者は十二分に認識している。
馬英九氏が昨年秋、海峡両岸の内戦状態を終結させる平和協定の協議に言及するや猛反発が起きた。08年総統選では民進党候補に220万票の大差をつけた馬英九氏が今回は80万票差に迫られたのは、協定協議が「統一」につながりかねないとの懸念からである。
◆自由にものが言える
開票から一夜明けた1月15日の昼、元総統の私設応援団といえる「李登輝民主協会」の理事長、蔡焜燦氏は台北市内の料理店で「残念会」を開いた。蔡焜燦氏は司馬遼太郎氏の「街道をゆく~台湾紀行」に案内役の「老台北」として登場する著名人だ。
独立派の言いたい放題の会合だから話ははずみ、蔡焜燦氏は「老兵は死なず」「次の戦にそなえよう」などと気勢をあげた。
台湾では国民党政権が1987年までの38年間、全土に戒厳令を敷く一党独裁体制を堅持した。しかし、今は選挙の洗礼を受けなければ政権には就けない。「老台北」の政権への辛口批評を現在の国民党政権が咎(とが)めることもない。
96年に、当時国民党の李登輝氏が直接選挙による初の総統に選ばれて以降の総統選を振り返ると、2000年は民進党の陳水扁氏が当選して政権交代を実現したが、04年は再選されるも辛勝で、08年には馬英九氏を立てた国民党が政権を奪回した。中国が言動を警戒する李登輝氏の政治遍歴もまた、成熟する「民主台湾」の一面だ。
総統選の主要候補3人によるテレビ討論が簡易ブログを通じて中国のインターネットに転載され、「民主主義がうらやましい」との反応があふれたという。
大陸の一党独裁体制が悩ましくとらえる「民主台湾」の選挙は、4年ごとに巡ってくる。
(とりうみ よしろう)