夕刻の備忘録 様のブログより。
「社会風刺コント集団」という名目で仕事をしているグループがある。見るに堪えない彼等のパフォーマンスは決して「社会風刺」などではない。「政治家風刺」いや単なる「政治家の誹謗中傷」に過ぎないものである。
本当の社会風刺なら、大衆批判を何故やらないのか。風刺されるべき「社会」とは所謂「大衆」のことではないのか。批判されるべき大衆に媚びを売り、大衆の最も愚劣な部分を擽って、日当を稼いでいる。反権力を気取って見栄を切り、実際には「木戸銭を払う本物の権力者」に擦り寄っている、実に不潔な連中である。
★ ★ ★ ★ ★
日本を取り戻す為には、日本とは何かを知らねばならない。
祖国とは何かを知らねばならない。
我々は何をもってして祖国と考え、何をもってして日本と認識するか。
それは言葉である。日本語こそが我々の「祖国」である。
日本語により全てが語られ、日本語により全てが考えられる。喜怒哀楽の全て、人間存在の全てが日本語において為される以上、我々はこれをもって祖国の定義とし、日本国の定義としなければならない。母語とは、生活習慣の全て、即ち我々の文化そのものであるが故に、それを祖国とし、それを日本とするのである。
あらゆる破壊活動が、言葉の破壊から始まるのは偶然ではない。
彼等こそ、「言葉こそが祖国である」ことを知り抜く者である。
知っているからこそ、言葉を破壊しようとする。様々な名目で様々な機会を捉えて、言葉を破壊し文化を破壊しようとする。
敵の攻撃目標こそ、味方の最重要拠点である。
即ち、我々は言葉を護り、文化を護り、もって日本国を護らねばならない。不潔な言葉遊びを遠ざけ、美しい日本語を護り、強くしなやかな言葉をもって、敵の野望を挫かねばならない。過ぎたる英語教育も然り、主体性無き秋入学も然りである。正しい日本語を学ぶ機会を減少させ、日本の伝統文化を、無意味な迎合によって変えようとしている。義務教育たる学校で、最高学府とやらでこの体たらくである。
何十年にも渡って毎日毎日、二十四時間連続でマスコミによる「狂った日本語」を聞かされ続ければ、精神のバランスを崩すのも無理はない。タレントが結婚するという。その時、当り前のように付け加えられるのが、『なお、妊娠はしていない“模様”』という決め台詞である。何故結婚話に当然のように「妊娠」が加算されているのか。何が「模様」なのか。こんな不潔な穢らわしい話はない。これもまた「家族崩壊」を促進させる為の工作活動の一環だと断じてよい。秘め事を曝す企みには、全て同じ「意図」がある。
しかも今や大半の国民が、何の違和感も無く、まさに「聞き捨て」にしてしまう。「聞き捨てならぬ話」を聞き捨てにする時、そこには「精神の荒廃」が起こっている。既に脳の中心が腐っているのだ。忘れてはならないことを、忘れさせられているのだ。
★ ★ ★ ★ ★
あなたは大切なことを忘れていないか。
堪えることから逃げ、忘れたことにしていないか。
ひたすら改革を唱える「煽動者」に、心動かされてはいないだろうか。
忘れることが「克服する」ことではない。正面からぶつかることを避けて、無かったことにするだけでは、済まない話もあるのだ。戦争で多くの人が亡くなったことは事実である。戦闘に参加しなかった民間人も、その人生を大きく変えられたことも事実である。しかし、それが歴史なのだ。世界中で戦争を体験していない民族を捜す方が難しいくらいである。そんな中で、全てを自分以外の責任に押し付けて、自分だけはと殻の中に籠もり、都合の悪いことは忘れて暮らす。それを「平和と定義した」のが、戦後体制なのである。
断言しておこう。我が国の「戦後体制」、真に脱却すべき体制とは、この物忘れの酷い国民性である。強力な美徳であり、我が国の底力の源でもあるこの極度の「健忘症」が、同時に我々を縛り付ける劇薬としても働いているのだ。
今既に、東北地方の震災を忘れようとしている人々が居るではないか。遺体の見付からない人も居るというのに。それを平然と無視して、言葉遊びに興じる政府に押し掛ける人もいない。それを論難する人さえ少ない。
過ぎたことは還ってはこない。だから忘れるのではなく、だから記憶するのである。徹底的に記憶し、それを今、目の前で起こった事実の如く再現するのだ。それを阻む勢力があり、それを否定する傍観者がいる限り、「記憶こそが我々最大の武器である」ことが証明されたようなものである。「忘れさせたい連中」に一矢を報いるには、「覚えるしかない」ではないか。
忘れてはならないことがあるのだ。
絶対に忘れてはならないことがあるのだ。
それを先ず確認することが、我々の今に必要な、最優先事項である。
それこそが「戦後体制からの脱却」なのだ。
本当の社会風刺なら、大衆批判を何故やらないのか。風刺されるべき「社会」とは所謂「大衆」のことではないのか。批判されるべき大衆に媚びを売り、大衆の最も愚劣な部分を擽って、日当を稼いでいる。反権力を気取って見栄を切り、実際には「木戸銭を払う本物の権力者」に擦り寄っている、実に不潔な連中である。
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日本を取り戻す為には、日本とは何かを知らねばならない。
祖国とは何かを知らねばならない。
我々は何をもってして祖国と考え、何をもってして日本と認識するか。
それは言葉である。日本語こそが我々の「祖国」である。
日本語により全てが語られ、日本語により全てが考えられる。喜怒哀楽の全て、人間存在の全てが日本語において為される以上、我々はこれをもって祖国の定義とし、日本国の定義としなければならない。母語とは、生活習慣の全て、即ち我々の文化そのものであるが故に、それを祖国とし、それを日本とするのである。
あらゆる破壊活動が、言葉の破壊から始まるのは偶然ではない。
彼等こそ、「言葉こそが祖国である」ことを知り抜く者である。
知っているからこそ、言葉を破壊しようとする。様々な名目で様々な機会を捉えて、言葉を破壊し文化を破壊しようとする。
敵の攻撃目標こそ、味方の最重要拠点である。
即ち、我々は言葉を護り、文化を護り、もって日本国を護らねばならない。不潔な言葉遊びを遠ざけ、美しい日本語を護り、強くしなやかな言葉をもって、敵の野望を挫かねばならない。過ぎたる英語教育も然り、主体性無き秋入学も然りである。正しい日本語を学ぶ機会を減少させ、日本の伝統文化を、無意味な迎合によって変えようとしている。義務教育たる学校で、最高学府とやらでこの体たらくである。
何十年にも渡って毎日毎日、二十四時間連続でマスコミによる「狂った日本語」を聞かされ続ければ、精神のバランスを崩すのも無理はない。タレントが結婚するという。その時、当り前のように付け加えられるのが、『なお、妊娠はしていない“模様”』という決め台詞である。何故結婚話に当然のように「妊娠」が加算されているのか。何が「模様」なのか。こんな不潔な穢らわしい話はない。これもまた「家族崩壊」を促進させる為の工作活動の一環だと断じてよい。秘め事を曝す企みには、全て同じ「意図」がある。
しかも今や大半の国民が、何の違和感も無く、まさに「聞き捨て」にしてしまう。「聞き捨てならぬ話」を聞き捨てにする時、そこには「精神の荒廃」が起こっている。既に脳の中心が腐っているのだ。忘れてはならないことを、忘れさせられているのだ。
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あなたは大切なことを忘れていないか。
堪えることから逃げ、忘れたことにしていないか。
ひたすら改革を唱える「煽動者」に、心動かされてはいないだろうか。
忘れることが「克服する」ことではない。正面からぶつかることを避けて、無かったことにするだけでは、済まない話もあるのだ。戦争で多くの人が亡くなったことは事実である。戦闘に参加しなかった民間人も、その人生を大きく変えられたことも事実である。しかし、それが歴史なのだ。世界中で戦争を体験していない民族を捜す方が難しいくらいである。そんな中で、全てを自分以外の責任に押し付けて、自分だけはと殻の中に籠もり、都合の悪いことは忘れて暮らす。それを「平和と定義した」のが、戦後体制なのである。
断言しておこう。我が国の「戦後体制」、真に脱却すべき体制とは、この物忘れの酷い国民性である。強力な美徳であり、我が国の底力の源でもあるこの極度の「健忘症」が、同時に我々を縛り付ける劇薬としても働いているのだ。
今既に、東北地方の震災を忘れようとしている人々が居るではないか。遺体の見付からない人も居るというのに。それを平然と無視して、言葉遊びに興じる政府に押し掛ける人もいない。それを論難する人さえ少ない。
過ぎたことは還ってはこない。だから忘れるのではなく、だから記憶するのである。徹底的に記憶し、それを今、目の前で起こった事実の如く再現するのだ。それを阻む勢力があり、それを否定する傍観者がいる限り、「記憶こそが我々最大の武器である」ことが証明されたようなものである。「忘れさせたい連中」に一矢を報いるには、「覚えるしかない」ではないか。
忘れてはならないことがあるのだ。
絶対に忘れてはならないことがあるのだ。
それを先ず確認することが、我々の今に必要な、最優先事項である。
それこそが「戦後体制からの脱却」なのだ。