夕刻の備忘録 様のブログより。
「政権交代選挙」でも、先の「大阪市長選」でも、改革、革命、維新の大安売りである。何故、我々はここまで「改革」という言葉に翻弄されるのか。
それは繰り返し述べてきたここでの主題「忘却」、即ち「忘れる」からである。過去を水に流して、明日を夢見るからである。過去に自信が持てず、明日だけが頼りの人間は、そこに夢を託すしかない。「変わる」という言葉が大好きで、変わらない自分に腹を立て、毎日毎日「変わらなきゃ、変わらなきゃ」と焦っている人間には、これほど甘い誘惑の言葉はないのである。
「明日もそのままでいいのですか?」などという愚劣な広告に、いとも簡単に揺り動かされて、英会話教室に年会費を振り込んでしまう。英語が出来たところで、人生など全く拓けはしない。良くなることはほとんどない。
金が余り、人生に退屈している人はいいだろう。しかし、金も時間も有限だ。片言の英語が出来たその分だけ、本当は得ることが出来たであろう人生の真実を失った、少なくともその可能性があったとは誰も考えないのだ。だから電通如きに操られてしまうのだ。
★ ★ ★ ★ ★
ある日、車内で「奇っ怪な広告」を見た。
NO JAPANESE, NO SILENCE
これが何と英会話教室の広告である。「英語の出来ない日本人」としては、移動中の車内でふと立ち止まってしまったのである。聞けば「日本語禁止、沈黙禁止」という意味だそうである。何とも不思議な表情をした外人講師の写真の横にこのコピー。余りに冴えないその表情の裏を探っている中に、「日本人は要らない。もう黙ってないぞ」と読んでしまった。何にしても「英語の要らない日本人」としては、最も見たくないタイプの広告である。
何故そんなにまでして、英語如きに金と時間を割くのだろうか。旅行に行けること、現地で買物が出来ること、僅かそれだけの為に、どうしてそこまで無駄金、死に金を投じて平気なのだろうか。全ては広告業界の思うがまま、彼等が欲する場所に、欲するだけの金が動くように、操られているだけではないか。
「変わりたい、忘れたい」という心の隙を突かれているのである。この軽薄な自己反省癖は、「本物の反省」を遠ざけてしまう。従って、どんなに痛い目にあっても、再び同じ過ちを繰り返す。「カルト」を梯子する人がいるように。
忘れたいあなたは、既に忘れている。
本当に大切なことを忘れて、些末なことのみを覚えている。
そして、その小さなことさえ忘れて全くの白紙に戻れば、何か新しいことが始まると信じている。流行に流され、他人に流され、自分を見失うことが、時代の先端に位置することだと思い込まされている。さあ、五時半になった新しいスイーツを見付ける為に、テレビのスイッチをオンにしよう。
★ ★ ★ ★ ★
政権交代選挙がもたらしたこの「地獄絵図」を見ようともせず、未だに自民党との比較論で他人を騙し、自分を騙して精神の安定を保っている人がいる。
官僚が悪い、政治家が悪い、東電が原発が悪いと叫んで何になる。
官僚が悪いのではなく、「悪い官僚がいる」だけの話ではないか。
政治家が悪いのではなく、「悪い政治家を選んだ」だけのことだ。
東電が原発が悪いのではなく、悪い経営者がいて、悪い管理者がいて、愚かな政府がさらに事態を悪化させた。そして、その悪い政府を心待ちにして、バラ色の未来が拓けるかの如く錯覚した有権者が悪いだけの話であろう。
原発が利権なら、反原発も利権だろう。
ものには裏表があるものだ。
シビアアクシデントに際して、その存廃を決めるのは、冷静に事態の推移を見守りながら、将来のあるべきエネルギー問題を議論し、それに向け小さな一歩を確実に踏み出している人達である。本当に利権と無縁なのは、そうした落ち着いた人達だけである。何故なら、利権に無縁な人は「時機を逸することを恐れない」からである。今がチャンスと騒ぐのは、「利権を得るチャンス」という意味以外のなにものでもない。「戦後体制」は、こうした問題でも、見事なまでにその醜い姿をさらけ出すのである。
何度も何度も繰り返しているように、「戦後体制」とは、憲法形成や再軍備のような大きな問題を論じることではなく、日々のニュースの中に、あるいは我々の日々の暮らしの中に浸透している、この矛盾を克服することにある。忘却ではなく、真正面から問題にぶち当たって、これを抑え込むことにある。
喫緊の政治課題とは、我々の明日の暮しのことなのだ。
我々の心の持ち方のことなのだ。
それは繰り返し述べてきたここでの主題「忘却」、即ち「忘れる」からである。過去を水に流して、明日を夢見るからである。過去に自信が持てず、明日だけが頼りの人間は、そこに夢を託すしかない。「変わる」という言葉が大好きで、変わらない自分に腹を立て、毎日毎日「変わらなきゃ、変わらなきゃ」と焦っている人間には、これほど甘い誘惑の言葉はないのである。
「明日もそのままでいいのですか?」などという愚劣な広告に、いとも簡単に揺り動かされて、英会話教室に年会費を振り込んでしまう。英語が出来たところで、人生など全く拓けはしない。良くなることはほとんどない。
金が余り、人生に退屈している人はいいだろう。しかし、金も時間も有限だ。片言の英語が出来たその分だけ、本当は得ることが出来たであろう人生の真実を失った、少なくともその可能性があったとは誰も考えないのだ。だから電通如きに操られてしまうのだ。
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ある日、車内で「奇っ怪な広告」を見た。
NO JAPANESE, NO SILENCE
これが何と英会話教室の広告である。「英語の出来ない日本人」としては、移動中の車内でふと立ち止まってしまったのである。聞けば「日本語禁止、沈黙禁止」という意味だそうである。何とも不思議な表情をした外人講師の写真の横にこのコピー。余りに冴えないその表情の裏を探っている中に、「日本人は要らない。もう黙ってないぞ」と読んでしまった。何にしても「英語の要らない日本人」としては、最も見たくないタイプの広告である。
何故そんなにまでして、英語如きに金と時間を割くのだろうか。旅行に行けること、現地で買物が出来ること、僅かそれだけの為に、どうしてそこまで無駄金、死に金を投じて平気なのだろうか。全ては広告業界の思うがまま、彼等が欲する場所に、欲するだけの金が動くように、操られているだけではないか。
「変わりたい、忘れたい」という心の隙を突かれているのである。この軽薄な自己反省癖は、「本物の反省」を遠ざけてしまう。従って、どんなに痛い目にあっても、再び同じ過ちを繰り返す。「カルト」を梯子する人がいるように。
忘れたいあなたは、既に忘れている。
本当に大切なことを忘れて、些末なことのみを覚えている。
そして、その小さなことさえ忘れて全くの白紙に戻れば、何か新しいことが始まると信じている。流行に流され、他人に流され、自分を見失うことが、時代の先端に位置することだと思い込まされている。さあ、五時半になった新しいスイーツを見付ける為に、テレビのスイッチをオンにしよう。
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政権交代選挙がもたらしたこの「地獄絵図」を見ようともせず、未だに自民党との比較論で他人を騙し、自分を騙して精神の安定を保っている人がいる。
官僚が悪い、政治家が悪い、東電が原発が悪いと叫んで何になる。
官僚が悪いのではなく、「悪い官僚がいる」だけの話ではないか。
政治家が悪いのではなく、「悪い政治家を選んだ」だけのことだ。
東電が原発が悪いのではなく、悪い経営者がいて、悪い管理者がいて、愚かな政府がさらに事態を悪化させた。そして、その悪い政府を心待ちにして、バラ色の未来が拓けるかの如く錯覚した有権者が悪いだけの話であろう。
原発が利権なら、反原発も利権だろう。
ものには裏表があるものだ。
シビアアクシデントに際して、その存廃を決めるのは、冷静に事態の推移を見守りながら、将来のあるべきエネルギー問題を議論し、それに向け小さな一歩を確実に踏み出している人達である。本当に利権と無縁なのは、そうした落ち着いた人達だけである。何故なら、利権に無縁な人は「時機を逸することを恐れない」からである。今がチャンスと騒ぐのは、「利権を得るチャンス」という意味以外のなにものでもない。「戦後体制」は、こうした問題でも、見事なまでにその醜い姿をさらけ出すのである。
何度も何度も繰り返しているように、「戦後体制」とは、憲法形成や再軍備のような大きな問題を論じることではなく、日々のニュースの中に、あるいは我々の日々の暮らしの中に浸透している、この矛盾を克服することにある。忘却ではなく、真正面から問題にぶち当たって、これを抑え込むことにある。
喫緊の政治課題とは、我々の明日の暮しのことなのだ。
我々の心の持ち方のことなのだ。