夕刻の備忘録 様のブログより。
我々日本人は「戦後を克服していない」。
それが結論である。
ならば今あるのは何故か。
それは「忘れた」からである。
全てを忘れる「日本人の特質」によって今日がある。
「戦後体制からの脱却」を主張する以上は、戦前・戦中・戦後の様々な事象に目を配る必要がある。今なお、何ら根拠を例示することも無く、全てを軍国主義に還元する「戦前暗黒論」が白昼堂々とまかり通っている。
この種の「政治プロパガンダ」がなお通用する理由は何か。
それは全てを忘れる日本人の特質によっている。
具体的な例証もなく、全てを他人の責任に押し付け、それでも足りなければ、国家の責任を問い、それでもなお足りなければ「歴史の責任」とする。こうした無茶苦茶が通用している理由は、その片棒を担ぐ者も、それを黙認している者も、総じてその場限りで、その場凌ぎの付き合いが、次の瞬間には終わり、また終わることを期待して話しているからである。
終わればいいのだ。
終われば忘れられる。
日本人のこの特質は、美徳とも考えられるが、その一方で余りにも危険である。我が国では、人柱が立たない限り、事件や事故が記憶に残ることは無い。犠牲者が出ない限り、ほとんどの問題は、忘れ去られるのである。それが果たして美徳で済むだろうか。
忘れなければ次に進めない。それは人類共通の特性ではないか、と考える人もいるだろう。しかし、一面でこれを「美徳とまで考えている」、いや実際にそこまで高めてきた民族は、我々だけではないだろうか。死ぬまで恨む、死んでも恨む、子々孫々まで恨み続けるという反面教師が我々の近くにいるだろう。
我々は忘れる。
忘れることは「水に流す」ことである。
それは全てを赦すことでもある。
従って、恨みは長くは続かない。
従って、心は常に前を向いている。
この特質が悪用されるのである。
この人の好さに付け込む連中がいるのである。
先の大戦も然り、占領の問題も然り、そして今なお続く「戦後体制」の問題も然りである。我々のこの真面目さ、人の好さを巧みに使った洗脳が続いている。他国を占領する連中は何を考えるだろうか。戦わずして勝つ、戦わずして相手を制するには、何が必要だろうか。それは相手を「諦めさせること」である。諦めた人間ほど弱いものはない。
日本の場合はどうか。
諦める云々の前に、既に忘れていた。
米軍の占領政策がここまで有効に機能したのは、全て我々のこの特質による。彼等が必死で我々を抑え付け、二度と立ち上がれないように制圧したのではない。我々自らが、自らの決断として「忘れた」のだ。必死に忘れようと努めたのだ。
辛いこと、哀しいことの為に忘れただけではない。
「便乗健忘症」も極めて多数いたのだ。
占領軍にとってこれほど与し易い相手はいない。
人類史上初の核爆弾の被爆地にも、マクドナルドはある、ケンタッキーもある。そして、そこには相手を責めるではなく、自らを抑え込む碑文がある。主旨不明のモニュメントがある。まさに歴史の一大奇観ではないか。これを赦すというのだろうか。これが水に流すことなのか。単に忘れているだけではないのか。忘れようとしているだけではないのか。
それが結論である。
ならば今あるのは何故か。
それは「忘れた」からである。
全てを忘れる「日本人の特質」によって今日がある。
「戦後体制からの脱却」を主張する以上は、戦前・戦中・戦後の様々な事象に目を配る必要がある。今なお、何ら根拠を例示することも無く、全てを軍国主義に還元する「戦前暗黒論」が白昼堂々とまかり通っている。
この種の「政治プロパガンダ」がなお通用する理由は何か。
それは全てを忘れる日本人の特質によっている。
具体的な例証もなく、全てを他人の責任に押し付け、それでも足りなければ、国家の責任を問い、それでもなお足りなければ「歴史の責任」とする。こうした無茶苦茶が通用している理由は、その片棒を担ぐ者も、それを黙認している者も、総じてその場限りで、その場凌ぎの付き合いが、次の瞬間には終わり、また終わることを期待して話しているからである。
終わればいいのだ。
終われば忘れられる。
日本人のこの特質は、美徳とも考えられるが、その一方で余りにも危険である。我が国では、人柱が立たない限り、事件や事故が記憶に残ることは無い。犠牲者が出ない限り、ほとんどの問題は、忘れ去られるのである。それが果たして美徳で済むだろうか。
忘れなければ次に進めない。それは人類共通の特性ではないか、と考える人もいるだろう。しかし、一面でこれを「美徳とまで考えている」、いや実際にそこまで高めてきた民族は、我々だけではないだろうか。死ぬまで恨む、死んでも恨む、子々孫々まで恨み続けるという反面教師が我々の近くにいるだろう。
我々は忘れる。
忘れることは「水に流す」ことである。
それは全てを赦すことでもある。
従って、恨みは長くは続かない。
従って、心は常に前を向いている。
この特質が悪用されるのである。
この人の好さに付け込む連中がいるのである。
先の大戦も然り、占領の問題も然り、そして今なお続く「戦後体制」の問題も然りである。我々のこの真面目さ、人の好さを巧みに使った洗脳が続いている。他国を占領する連中は何を考えるだろうか。戦わずして勝つ、戦わずして相手を制するには、何が必要だろうか。それは相手を「諦めさせること」である。諦めた人間ほど弱いものはない。
日本の場合はどうか。
諦める云々の前に、既に忘れていた。
米軍の占領政策がここまで有効に機能したのは、全て我々のこの特質による。彼等が必死で我々を抑え付け、二度と立ち上がれないように制圧したのではない。我々自らが、自らの決断として「忘れた」のだ。必死に忘れようと努めたのだ。
辛いこと、哀しいことの為に忘れただけではない。
「便乗健忘症」も極めて多数いたのだ。
占領軍にとってこれほど与し易い相手はいない。
人類史上初の核爆弾の被爆地にも、マクドナルドはある、ケンタッキーもある。そして、そこには相手を責めるではなく、自らを抑え込む碑文がある。主旨不明のモニュメントがある。まさに歴史の一大奇観ではないか。これを赦すというのだろうか。これが水に流すことなのか。単に忘れているだけではないのか。忘れようとしているだけではないのか。