大黒屋光太夫、ロシアを出発。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【決断の日本史】1792年9月13日




10年ぶりの故国も「軟禁」生活


 ロシア暦の1792年9月13日、シベリア東岸のオホーツクから1隻の軍艦が日本に向け出航した。エカテリーナ女帝の命を受け、日本との外交関係を結ぶための使節団であった。

 船には3人の日本人が乗っていた。10年前の天明2(1782)年12月、伊勢国白子(しろこ)(三重県鈴鹿市)から江戸へ向かう途中に難破してロシアに渡っていた船頭、大黒屋光太夫(1751~1828年)らである。

 アリューシャン列島アムチトカ島まで8カ月間もの漂流、飢えや多くの仲間の死に直面しながら、光太夫らは帰国の夢を捨てなかった。首都ペテルブルクで女帝との謁見も果たし、ようやく希望がかなったのだった。

 ロシアは当時、シベリアからカムチャツカ、さらには千島へと領土を広げようとしていた。日本との外交を開くのは通商と航行安全のため、必要なことだった。光太夫の送還は交渉を有利に進める材料だったのである。

 陰暦9月3日、船は根室に到着し翌年6月、松前(まつまえ)で幕府とロシア軍中尉ラクスマンによる交渉が始まった。幕府は「貿易は長崎で行うのが、わが国の法である。一度ロシアに戻ってこのことを伝えてほしい」と主張し、ラクスマンはロシアに帰国した。
光太夫らは日本側に引き渡された。しかし、幕府の対応は冷たかった。江戸に移された光太夫は、田安門近くの屋敷に軟禁されたのである。鎖国下で、ロシアの情報などが世間に広まるのを恐れたためであった。

 光太夫らの暮らしぶりやロシアの地理や風俗は、事情聴取した幕府侍医、桂川甫周(ほしゅう)により『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』としてまとめられ、今に伝わっている。

 光太夫は結婚は許され、子供ももうけた。帰国後36年を生き、78歳で亡くなった。一度だけだが、故郷の伊勢にも戻ったのだった。(渡部裕明)