バレーボールが日本の「国民的スポーツ」となった背景には経済成長期の集団就職もありそうだ。10代半ばで故郷を後にした若者たちの「絆」を強めるレクリエーションとして企業が取り入れたからだ。特に女子従業員が多い繊維業界は積極的で、強豪チームも生まれる。
▼もっとも昭和30年代までは、9人制が主流だった。「後衛」の選手は守備専門で、背が高くなくとも戦力になれる。それにちょっとでも多くの人間が競技に参加できる。いかにも戦後日本の風土にマッチしているようなスポーツだった。
▼その中でいち早く「国際規格」の6人制に切り替えたのが大阪の貝塚市に拠点を置く女子のニチボー貝塚である。大松博文監督の厳しい指導で、たちまち国内で無敵となる。昭和36年には欧州に遠征し何と22連勝を飾る。当時世界一のソ連をも破り「東洋の魔女」として喝采を博した。
▼その陰でみじめな思いをしたのが男子の日本チームである。ニチボー貝塚に「同行」して欧州に遠征したが、こちらは連戦連敗だった。3年後の東京五輪で魔女チームが金メダルを獲得した後の祝勝会に、男子チームは連絡ミスで招待もされなかったという。
▼文字通りの「日陰者」を世界一にまでたたき直したのが、昨年末亡くなった松平康隆さんだった。猛練習に加え「一人時間差」など変幻自在な戦法を編み出す。東京から8年後のミュンヘン五輪ではついに頂点に立った。みごとに見返したのだ。
▼松平さん自身は1メートル62という小柄で、9人制の「後衛」出身である。後ろから攻撃がどうあるべきか常に考えていたのだという。コートで2メートル近い選手たちを見上げるように、ハッパをかけていた姿が忘れられない。