【決断の日本史】 684年2月28日
天武天皇の崩御で幻に
東日本大震災によって、「首都機能移転構想」が再び脚光を浴びている。東京が万一の場合、副都となる都市が必要だとする議論である。
今から1300年以上前、都を信濃(科野(しなの)、長野県)に移す計画があった。プランナーは天武天皇である。天武13(684)年2月28日、天皇は皇族の三野王(みののおおきみ)らを信濃に派遣した。都を造る候補地探しであった。
当時の都は飛鳥浄御原宮(きよみがはらのみや)(奈良県明日香村)である。飛鳥を出るだけでは兄の天智天皇も大津に遷都しているから、例がないわけではない。しかし、信濃ははるかに遠い。
遷都の背景は、朝鮮半島を統一した強国・新羅の脅威であった。つい21年前、日本は海を越えて数万の大軍を送り、新羅と唐の連合軍に大敗している(白村江の戦い)。緊張は続いており、信濃は東国の兵を結集させる場所としては適している。
天皇がどこまで真剣だったかについては、意見が分かれる。しかし信濃から戻った三野王は同年閏(うるう)4月11日、作成した地図を提出している。生半可な気持ちではなかったようだ。
天武14(685)年10月には、束間湯(つかまのゆ)(松本市の浅間温泉か)に行幸(ぎょうこう)するため行宮(あんぐう)の建設が命じられている。この時代、温泉からは大地の霊力が得られるという「霊泉信仰」があった。信濃が新都候補地にされたのは、温泉が多いことも理由だったのだろう。
ここまで進んだ計画だったが、肝心の天武天皇が病に倒れた。寝込む日が増え、翌朱鳥(しゅちょう)元(686)年9月9日、亡くなった。
後を継いだ皇后の持統天皇にも信濃は特別な地だったようだ。持統5(691)年には、勅使を送って須波(すわ)(諏訪)神などを祀(まつ)らせている。「壬申の乱」を戦った兵の多くが、この地の出身だったのだろうか。
(渡部裕明)