夕刻の備忘録 様のブログより。
大企業優先の政治と批判され、日本を格差社会にしたと罵られた自民党。特に小泉構造改革以降は、その政治姿勢を「弱者切り捨て」と一刀両断することが流行になっている。これぞマスコミの大成果である。
一方の民主党は、格差社会を是正し「平等な社会」を作る、と大宣伝の末に政権を奪取した。「国民の生活が……」がスローガンであった。キーワードは「友愛」。ボランティアが活躍する社会、企業献金も認めない、個人献金が政治を支える社会を標榜してきた。
★ ★ ★ ★ ★
さて、「仕分け」に関して何度か主張してきたことであるが、こうした異常なパフォーマンスを終わらせるには、国民が挙って「無駄大好き!」と叫ぶ必要がある。そもそも無駄の定義は何か、それが無駄と誰が決めるのか、今の無駄は将来も無駄なのか、現在から未来への展望無くして、無駄を論じることに何の意味があるのか、そうしたことを面倒臭がらずに、一つ一つ丁寧に確認していかねばならない。それは猿芝居の好きな人達に出来る仕事ではないのである。
同じレベルの話である。今の狂った政権を倒すには、「格差大好き!」と叫ばねばならない。そうした意識改革無しには、必ず足下を掬われる。「……でも無駄はダメですよね!」と念押しされると、自分の主張を弱める人と同じことである。「……でも格差は良くないですよね!」と切り出されると、もうそれ以上何も言えなくなる人が多いのである。
そこで「格差結構じゃないですか、ええ大好きですよ!」と反論すれば、彼等は論拠を失うのである。押売撃退の戦略と同じである。「英語が話せればいいですよね」と持ち掛けられれば、「いや別に」と答えればいい。「これからはスマートフォンの時代です」と言われれば、「タダなら貰います!」と返せばいい。相手が「これだけは絶対に否定出来ないだろう」と高を括って切り出す「魔法の言葉」を否定すれば、もうそれだけで「こちらのペース」になる。
自民党政治が如何なるものであったか。
それは格差社会を作った。
まあ、そうでしょう。
それで格差の何が悪いのですか?
民主党政治が目指すもの。
それは平等社会です。
ああ、そうですか。
それの何が良いのですか?
人間は生まれながらにして持った特徴、特質があり、それはなかなか変えられないし、変わらない。遺伝的な問題もあって、絶対に変わらない部分もかなりある。そんな中で、平等だ公平だと言ったところで、現実を無視した夢物語に過ぎぬものが多い。そんな幼稚園児でも気が付く「世の無常」を否定して、一体何をしでかそうとするのか。
★ ★ ★ ★ ★
「我が国における格差社会」を一瞬にして無くす方法がある。
それは嫉妬心を捨てることである。
他人を羨み、他人を憎み、成功者を呪い、金の力を盲信する。
こうした「負の感情」と決別することである。
ただこれだけのことで、「格差社会」とやらは雲散霧消する。少なくとも、衣食住足りて、携帯電話を操り、テレビを見ながら、ネットも使っている人々の中に存在する「世界的に珍しい格差社会」は消えて無くなるはずである。
大企業批判をしたところで、大企業は大雇用を抱えているのだ。公共工事を批判したところで、「公共」の意味がゼロになることは無いのである。必ずや、金は回っていく。ゆっくりではあるが確実に、大地に雨が染み込むように、やがては様々な分野に回っていき、それぞれの場所でそれぞれの使われ方をするのである。
才能、努力、運、その他様々な要素が絡み合って、成功と失敗のドラマが繰り広げられる。しかし、何が成功で何が失敗か、それは本人だけが決めることである。他人にとやかく言われる筋合いはない。
「平等社会」を標榜する者は、常にこの嫉妬心に付け込んでくる。国民の中に階層を作ろうとする。それが「格差」という言葉である。国民が互いに助け合うのではなく、互いに啀み合いて、罵りあって、相互不信感を高めていく、これこそ「平等社会建設」の絶好の好機になる。
政治家なんて、官僚なんて、大企業なんて、経営者なんて、学者なんて……「誰がやっても同じだ」と国民に思わせ、信じ込ませることによって彼等は自分達の居場所を確保する。民主党は平等社会を目指している、そしてそれは確実に進んでいる。その真の意味は
日本国民全員が貧乏になる社会
である。これこそが民主党の目指す平等社会の実態である。「年収一億円」の人間を羨み、陰口を言い、同じ時間だけ働いて「何だこの不平等は」と感じさせる。そして、その不平等を駆逐した社会が誕生する。それは全員が「年収百万円」になる社会である。全員が「年収一億円」になる社会を餌にして、出来上がる現実は百万円の総貧乏社会である。彼等の本音は「百万もあればいいんじゃないか、それで平等なら」である。それが「手当中心」の政策に見事に現れている。
誰もが自分のことで精一杯であり、家族同士でさえ助け合おうとしない、実際に助けられない社会である。篤志家も居なくなり、和が身を捨て他人の為に尽くす人も絶滅する。それが彼等のいう「平等」である。「貧乏でもいいじゃないか、友愛の精神さえあれば」というわけである。
★ ★ ★ ★ ★
確かに自民党政治に問題無しとはしない。しかし、それは一割の金持ちと、一割の貧乏人と、自分では貧乏だと信じ、信じ込まされている八割の普通の人々で出来た社会であった。一方の民主党政治は僅かに1パーセントの支配層が、残る99パーセントの貧乏人を操る平等社会である。自分達だけは絶対無謬で、何事があっても謝らず、修正せず、悪いのは全て過去の政権の所為にして、税金は広く厚く、徹底的に収奪して、それを自分達の好むところに大量に流し込む。それは時に外国であり、時に誰も知らない裏社会の人間にである。それが彼等の平等意識である。「自分以外全部沈没」が彼等の理想である。
様々な所得の拡がりがある不均一な「不平等社会」で働き、そのダイナミズムの中で自分の人生を見出していく格差社会を選ぶのか、増税増税でその使い道すら明示せず、誰もが貧乏で誰もが嫉妬深い、「相互不信の末の平等社会」を選ぶのか、その岐路に我々は立っている。
普通の人達が普通に暮らせる国家とは、決して「平等を求めた結果」に得られるものではなく、嫉妬心を捨てた人達が、相互に助け合うことによって実現されるものである。そこに民主党の入り込む余地は無い。常に敵を作り、国民の中に敵を探しては分断させようと試みている彼等に、隙を見せてはならないのである。
「一億総貧乏社会」を避ける為に。
一方の民主党は、格差社会を是正し「平等な社会」を作る、と大宣伝の末に政権を奪取した。「国民の生活が……」がスローガンであった。キーワードは「友愛」。ボランティアが活躍する社会、企業献金も認めない、個人献金が政治を支える社会を標榜してきた。
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さて、「仕分け」に関して何度か主張してきたことであるが、こうした異常なパフォーマンスを終わらせるには、国民が挙って「無駄大好き!」と叫ぶ必要がある。そもそも無駄の定義は何か、それが無駄と誰が決めるのか、今の無駄は将来も無駄なのか、現在から未来への展望無くして、無駄を論じることに何の意味があるのか、そうしたことを面倒臭がらずに、一つ一つ丁寧に確認していかねばならない。それは猿芝居の好きな人達に出来る仕事ではないのである。
同じレベルの話である。今の狂った政権を倒すには、「格差大好き!」と叫ばねばならない。そうした意識改革無しには、必ず足下を掬われる。「……でも無駄はダメですよね!」と念押しされると、自分の主張を弱める人と同じことである。「……でも格差は良くないですよね!」と切り出されると、もうそれ以上何も言えなくなる人が多いのである。
そこで「格差結構じゃないですか、ええ大好きですよ!」と反論すれば、彼等は論拠を失うのである。押売撃退の戦略と同じである。「英語が話せればいいですよね」と持ち掛けられれば、「いや別に」と答えればいい。「これからはスマートフォンの時代です」と言われれば、「タダなら貰います!」と返せばいい。相手が「これだけは絶対に否定出来ないだろう」と高を括って切り出す「魔法の言葉」を否定すれば、もうそれだけで「こちらのペース」になる。
自民党政治が如何なるものであったか。
それは格差社会を作った。
まあ、そうでしょう。
それで格差の何が悪いのですか?
民主党政治が目指すもの。
それは平等社会です。
ああ、そうですか。
それの何が良いのですか?
人間は生まれながらにして持った特徴、特質があり、それはなかなか変えられないし、変わらない。遺伝的な問題もあって、絶対に変わらない部分もかなりある。そんな中で、平等だ公平だと言ったところで、現実を無視した夢物語に過ぎぬものが多い。そんな幼稚園児でも気が付く「世の無常」を否定して、一体何をしでかそうとするのか。
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「我が国における格差社会」を一瞬にして無くす方法がある。
それは嫉妬心を捨てることである。
他人を羨み、他人を憎み、成功者を呪い、金の力を盲信する。
こうした「負の感情」と決別することである。
ただこれだけのことで、「格差社会」とやらは雲散霧消する。少なくとも、衣食住足りて、携帯電話を操り、テレビを見ながら、ネットも使っている人々の中に存在する「世界的に珍しい格差社会」は消えて無くなるはずである。
大企業批判をしたところで、大企業は大雇用を抱えているのだ。公共工事を批判したところで、「公共」の意味がゼロになることは無いのである。必ずや、金は回っていく。ゆっくりではあるが確実に、大地に雨が染み込むように、やがては様々な分野に回っていき、それぞれの場所でそれぞれの使われ方をするのである。
才能、努力、運、その他様々な要素が絡み合って、成功と失敗のドラマが繰り広げられる。しかし、何が成功で何が失敗か、それは本人だけが決めることである。他人にとやかく言われる筋合いはない。
「平等社会」を標榜する者は、常にこの嫉妬心に付け込んでくる。国民の中に階層を作ろうとする。それが「格差」という言葉である。国民が互いに助け合うのではなく、互いに啀み合いて、罵りあって、相互不信感を高めていく、これこそ「平等社会建設」の絶好の好機になる。
政治家なんて、官僚なんて、大企業なんて、経営者なんて、学者なんて……「誰がやっても同じだ」と国民に思わせ、信じ込ませることによって彼等は自分達の居場所を確保する。民主党は平等社会を目指している、そしてそれは確実に進んでいる。その真の意味は
日本国民全員が貧乏になる社会
である。これこそが民主党の目指す平等社会の実態である。「年収一億円」の人間を羨み、陰口を言い、同じ時間だけ働いて「何だこの不平等は」と感じさせる。そして、その不平等を駆逐した社会が誕生する。それは全員が「年収百万円」になる社会である。全員が「年収一億円」になる社会を餌にして、出来上がる現実は百万円の総貧乏社会である。彼等の本音は「百万もあればいいんじゃないか、それで平等なら」である。それが「手当中心」の政策に見事に現れている。
誰もが自分のことで精一杯であり、家族同士でさえ助け合おうとしない、実際に助けられない社会である。篤志家も居なくなり、和が身を捨て他人の為に尽くす人も絶滅する。それが彼等のいう「平等」である。「貧乏でもいいじゃないか、友愛の精神さえあれば」というわけである。
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確かに自民党政治に問題無しとはしない。しかし、それは一割の金持ちと、一割の貧乏人と、自分では貧乏だと信じ、信じ込まされている八割の普通の人々で出来た社会であった。一方の民主党政治は僅かに1パーセントの支配層が、残る99パーセントの貧乏人を操る平等社会である。自分達だけは絶対無謬で、何事があっても謝らず、修正せず、悪いのは全て過去の政権の所為にして、税金は広く厚く、徹底的に収奪して、それを自分達の好むところに大量に流し込む。それは時に外国であり、時に誰も知らない裏社会の人間にである。それが彼等の平等意識である。「自分以外全部沈没」が彼等の理想である。
様々な所得の拡がりがある不均一な「不平等社会」で働き、そのダイナミズムの中で自分の人生を見出していく格差社会を選ぶのか、増税増税でその使い道すら明示せず、誰もが貧乏で誰もが嫉妬深い、「相互不信の末の平等社会」を選ぶのか、その岐路に我々は立っている。
普通の人達が普通に暮らせる国家とは、決して「平等を求めた結果」に得られるものではなく、嫉妬心を捨てた人達が、相互に助け合うことによって実現されるものである。そこに民主党の入り込む余地は無い。常に敵を作り、国民の中に敵を探しては分断させようと試みている彼等に、隙を見せてはならないのである。
「一億総貧乏社会」を避ける為に。