夕刻の備忘録 様のブログより。
反原発に対して違和感を持つと「原発推進派」と罵られる。
反東電に対して違和感を持つと「東電擁護派」と罵られる。
原子力村の住人と呼ばれ、御用学者と揶揄され、既得利権に塗れた汚物と蔑まれる。原発を罵り、東電を批判し、未来を語り、子供の未来を前に突き出せば、「心優しい市民の代表」として「新たな利権にありつける」というカラクリである。既得利権を云々する者の過半が、新利権を渇望する者であることを忘れてはならない。
そして、何故か主犯のことは話題にならない。
何でも「反」の好きな人達が、何故か「反政府」にはならない。
菅・枝野・海江田の主犯トリオは見逃されたままである。
地獄の中で戦い続けた吉田所長は、病気治療の為に退任された。
片や美食三昧にSP同伴の御遍路である。この落差を何と見るか!
★ ★ ★ ★ ★
震災と原発事故が一括りにされて論じられているが、明らかに原発事故は人災である。それは過去の東電の管理の問題、事故発生当時の保安院等の対応の問題、そして周辺に居て実行力を発揮出来なかった学者達の問題、それぞれに大きな失敗があった。しかしながら、それを指して、それだけを指して人災というには憚られる。
真の人災は、言うまでもなくあの「ヘリ視察事件」である。
勘違いの末の「東電怒鳴り込み事件」である。
あってもなかっても、というレベルの話ではない。
あれさえ無ければ、事態は全く違っていた。
そのことは次第に明らかになっていくであろう。
そして実際、そうなっている。
「誰がやってもあの状況下では、難しい判断であった」と、したり顔で語る人間も居る。政府関係者でありながら、自己弁護にこの台詞を吐く者まで居る。確かに「難しい判断」の連続であったことは事実である。しかし、あの瞬間に、あの立場に居て、なおかつ「私心を持って」行動したのは、この主犯達である。
日本国民の全てが、茫然自失の状態で被災地の今を見詰めていた時、「これを政権の延命に利用しようとした者達」が居た。私心を持って事に当たり、私心を持って周囲の者を動かした。国家国民の為に全力を尽くして犯した失敗ではない。自己中心的な発想から、あの凄まじい状況の中でさえ、なお「己のことを一番に考える人間」が犯した大事件なのである。
二人は逃亡した。そして一人は図々しくも現政権に残った。経産大臣とは名ばかりである。九電と知事を執拗に追い回し、批判の矛先が自分達に向かないように、必死の攻撃を加えている。やれ可視化だ、透明化だと騒ぎ立て、企業の失態追求のみに専念している。産業の拡大にも景気の回復にも何の興味もない。やっていることは企業の批判だけ、それも全てを自己保身の為に利用している。
オリンパスに大王製紙にと、問題企業が発覚する度に、しゃしゃり出てきては、子供でも言える批判に興じる。プラスになることは何もしない。マイナスを見付けては騒ぐだけの男である。「監督官庁の責任者として」と前振りを付ければ、如何な大企業のボスであろうとも、自らの掌の上で踊るしかない、と思い上がっているのである。
三人組だけではない。政府には共犯者がゴロゴロいる。道路が寸断されていたあの状況で、自衛隊機を使って緊急帰京しようとした当時の東電社長を、「自分の許可を得ていないから」という理由だけで、あと僅かで都内に入る所まで来ていた機を、防衛大臣は元の空港へと返したのである。これが私心でなくて一体何だというのだ。
これで反政府暴動が起こらない方がオカシイ。主犯追及の声が挙がらない方がオカシイ。被災地でも、当人達の選挙区でも、真実を追究しようとする人々は未だに少数派である。
我が国は大国である。世界同時不況の今、その方向に影響を与えうる立場に居る数少ない国である。その「世界の大国の財務大臣」は何をしているか。被災地を選挙区に持つ大臣は何をしているか。
八ヶ月を超えてなお、被災地に落とされる金は、僅かに六兆円程度だと言われている。国難とも呼ばれている大災害に対して、「被災地の復旧復興が第一の政治課題だ」と主張する内閣の財務責任者が、しかも被災地出身の大臣が、隣国には五兆円を出し、為替介入の為に七兆円を出し、そして被災地には六兆円なのである。
五兆円の貸し出しも、介入の七兆円も有効打とはとても思えない。一夜にして色褪せ、無駄になり、ドブに捨てたに等しい金に思えてならない。もちろん、当事者はそうは言わない、必要があって、必要な額を提供したのだと主張するだろう、効果はあったと言うだろう。
しかし、10対0のワンサイドゲームの最終回に、送りバントで一点を取ったからといって、得意満面で首を揺すりながら自慢話をされても、ベンチも観客も白けるだけだ。年間一千万円を越える給料を貰っていながら、「とてもあれでは生活が出来なかった」と言い放った財務大臣の金銭感覚では、国の財布が持たないことは明らかである。
★ ★ ★ ★ ★
何故「反原発」「反東電」が反政府に向かわないのか。
それは「同じ仲間だから」であろう。簡単にいえば、これら反の好きな人達の「共通の反」は、「反自民の反」なのである。それが今の政府との共通項である。野党連合、野党共闘とはいっても、必ず「野党内野党」になろうとする連中がいる。権力を監視し、時の政府を糺すのが野党の役割と、長年に渡って主張してきた連中が、今の政府の横暴を糺すでもなく、むしろ「自民党の無力を喧伝する」ことでなお反自民に徹している。
要するに、彼等には国家観も無ければ、正義感も無い。あるのは自民憎しの怨念だけである。現政府が反自民勢力である限りは、陰に日向に協力するのである。マスコミも全く同じ構図である。
現政府こそが原発事故の主犯であっても、反原発を掲げる勢力は、決して政府打倒とは言わない。唯ひたすら東電が、東電がと騒ぐのみである。このカラクリに、普通の国民はそろそろ気が付くべきである。心情的に今の原発に不安を抱くのは当然であり、出来ることならば原発を無くしたいと考えることは、極めて自然なことである。しかし、それが真犯人隠しに使われているとしたら、その「自然な感情」こそが、本物の悪党をのさばらせていることになる。
「巨悪を眠らせない」とは検察の合言葉である。
この二年間、巨悪は官邸で眠っているのだ!
反東電に対して違和感を持つと「東電擁護派」と罵られる。
原子力村の住人と呼ばれ、御用学者と揶揄され、既得利権に塗れた汚物と蔑まれる。原発を罵り、東電を批判し、未来を語り、子供の未来を前に突き出せば、「心優しい市民の代表」として「新たな利権にありつける」というカラクリである。既得利権を云々する者の過半が、新利権を渇望する者であることを忘れてはならない。
そして、何故か主犯のことは話題にならない。
何でも「反」の好きな人達が、何故か「反政府」にはならない。
菅・枝野・海江田の主犯トリオは見逃されたままである。
地獄の中で戦い続けた吉田所長は、病気治療の為に退任された。
片や美食三昧にSP同伴の御遍路である。この落差を何と見るか!
★ ★ ★ ★ ★
震災と原発事故が一括りにされて論じられているが、明らかに原発事故は人災である。それは過去の東電の管理の問題、事故発生当時の保安院等の対応の問題、そして周辺に居て実行力を発揮出来なかった学者達の問題、それぞれに大きな失敗があった。しかしながら、それを指して、それだけを指して人災というには憚られる。
真の人災は、言うまでもなくあの「ヘリ視察事件」である。
勘違いの末の「東電怒鳴り込み事件」である。
あってもなかっても、というレベルの話ではない。
あれさえ無ければ、事態は全く違っていた。
そのことは次第に明らかになっていくであろう。
そして実際、そうなっている。
「誰がやってもあの状況下では、難しい判断であった」と、したり顔で語る人間も居る。政府関係者でありながら、自己弁護にこの台詞を吐く者まで居る。確かに「難しい判断」の連続であったことは事実である。しかし、あの瞬間に、あの立場に居て、なおかつ「私心を持って」行動したのは、この主犯達である。
日本国民の全てが、茫然自失の状態で被災地の今を見詰めていた時、「これを政権の延命に利用しようとした者達」が居た。私心を持って事に当たり、私心を持って周囲の者を動かした。国家国民の為に全力を尽くして犯した失敗ではない。自己中心的な発想から、あの凄まじい状況の中でさえ、なお「己のことを一番に考える人間」が犯した大事件なのである。
二人は逃亡した。そして一人は図々しくも現政権に残った。経産大臣とは名ばかりである。九電と知事を執拗に追い回し、批判の矛先が自分達に向かないように、必死の攻撃を加えている。やれ可視化だ、透明化だと騒ぎ立て、企業の失態追求のみに専念している。産業の拡大にも景気の回復にも何の興味もない。やっていることは企業の批判だけ、それも全てを自己保身の為に利用している。
オリンパスに大王製紙にと、問題企業が発覚する度に、しゃしゃり出てきては、子供でも言える批判に興じる。プラスになることは何もしない。マイナスを見付けては騒ぐだけの男である。「監督官庁の責任者として」と前振りを付ければ、如何な大企業のボスであろうとも、自らの掌の上で踊るしかない、と思い上がっているのである。
三人組だけではない。政府には共犯者がゴロゴロいる。道路が寸断されていたあの状況で、自衛隊機を使って緊急帰京しようとした当時の東電社長を、「自分の許可を得ていないから」という理由だけで、あと僅かで都内に入る所まで来ていた機を、防衛大臣は元の空港へと返したのである。これが私心でなくて一体何だというのだ。
これで反政府暴動が起こらない方がオカシイ。主犯追及の声が挙がらない方がオカシイ。被災地でも、当人達の選挙区でも、真実を追究しようとする人々は未だに少数派である。
我が国は大国である。世界同時不況の今、その方向に影響を与えうる立場に居る数少ない国である。その「世界の大国の財務大臣」は何をしているか。被災地を選挙区に持つ大臣は何をしているか。
八ヶ月を超えてなお、被災地に落とされる金は、僅かに六兆円程度だと言われている。国難とも呼ばれている大災害に対して、「被災地の復旧復興が第一の政治課題だ」と主張する内閣の財務責任者が、しかも被災地出身の大臣が、隣国には五兆円を出し、為替介入の為に七兆円を出し、そして被災地には六兆円なのである。
五兆円の貸し出しも、介入の七兆円も有効打とはとても思えない。一夜にして色褪せ、無駄になり、ドブに捨てたに等しい金に思えてならない。もちろん、当事者はそうは言わない、必要があって、必要な額を提供したのだと主張するだろう、効果はあったと言うだろう。
しかし、10対0のワンサイドゲームの最終回に、送りバントで一点を取ったからといって、得意満面で首を揺すりながら自慢話をされても、ベンチも観客も白けるだけだ。年間一千万円を越える給料を貰っていながら、「とてもあれでは生活が出来なかった」と言い放った財務大臣の金銭感覚では、国の財布が持たないことは明らかである。
★ ★ ★ ★ ★
何故「反原発」「反東電」が反政府に向かわないのか。
それは「同じ仲間だから」であろう。簡単にいえば、これら反の好きな人達の「共通の反」は、「反自民の反」なのである。それが今の政府との共通項である。野党連合、野党共闘とはいっても、必ず「野党内野党」になろうとする連中がいる。権力を監視し、時の政府を糺すのが野党の役割と、長年に渡って主張してきた連中が、今の政府の横暴を糺すでもなく、むしろ「自民党の無力を喧伝する」ことでなお反自民に徹している。
要するに、彼等には国家観も無ければ、正義感も無い。あるのは自民憎しの怨念だけである。現政府が反自民勢力である限りは、陰に日向に協力するのである。マスコミも全く同じ構図である。
現政府こそが原発事故の主犯であっても、反原発を掲げる勢力は、決して政府打倒とは言わない。唯ひたすら東電が、東電がと騒ぐのみである。このカラクリに、普通の国民はそろそろ気が付くべきである。心情的に今の原発に不安を抱くのは当然であり、出来ることならば原発を無くしたいと考えることは、極めて自然なことである。しかし、それが真犯人隠しに使われているとしたら、その「自然な感情」こそが、本物の悪党をのさばらせていることになる。
「巨悪を眠らせない」とは検察の合言葉である。
この二年間、巨悪は官邸で眠っているのだ!