【from Editor】
福島県いわき市の海岸線を歩いているときだった。住居の跡から突き出た鉄棒の先に小さな日の丸が縛り付けてあった。周囲の民家はおおかた津波で流され、人けはなかった。それだけに鮮やかな白地に赤のコントラストは、野に咲いた一輪の花のようだった。
9月下旬に計4日間、県内の被災地をレンタカーで回ったが、私の目に国旗の存在が映ったのは、その1回であった。そして、随所で目にした「がんばろう日本」という色あせくたびれた旗やポスターよりも、「ここは同じ日本なのだ」という気持ちを起こさせた。
私たち日本人の多くは忘れているが、国旗の持つ意味のひとつに「連帯」の象徴がある。過去、戦争や大災害といった一大危機に、国や民族が苦難を分かち合い、気持ちをひとつにするという意思表示として国旗は使われてきた。
1996年12月、南米ペルーの首都リマ。日本大使公邸がテロリストたちに占拠され、ペルー人や日本人らが人質に捕られた数日後、誰かが呼びかけたわけでもなくペルーの国旗がビルや民家の屋上に一斉に掲げられた。公邸前には手製の日の丸を手にした日系人女性もいた。人質たちを励まし、「早期解放」を願うメッセージだ、と事件の取材のため駆けつけた私は、その光景を記事にした。
2001年9月11日、中枢同時テロが起きた米国もそうであったという。5年後、ワシントンに赴任した私に、近所の主婦のメリッサさんは「あのときは、この通りで星条旗をあげない家なんてなかった」と話して聞かせてくれた。
そのメリッサさんは日本の震災を受け、地元の小学校で義援金集めのイベントを企画した。当日、父母や子供たちが着た白のTシャツには日の丸がプリントされた。
大惨事に遭遇した外国の友人たちに同情と連帯の気持ちを表す手段として相手の国旗を使う。これも国際的なマナーである。だからこそ、メリッサさん一家が今年の8月、初めてその日本を訪れたとき、「どこに行っても国旗が見えない。なぜ?」と疑問を持ったのも無理はなかった。
国旗が戦後の日本で遠ざけられてきたことの是非を論じるつもりはない。ただ、提案がある。来年3月11日を全国で日の丸を掲げる日にしてはどうだろう。被災地の人々と心をひとつに復興を誓う印として、そして、内外からの支援への感謝の表現として。それはとりもなおさず、失われた国旗の意味を確認することにもなる。
(副編集長 渡辺浩生)