【決断の日本史】1614年10月1日
「大坂の陣」へ揺れる心
「狸(たぬき)おやじ」。徳川家康はこう評される。戦国の世にピリオドを打った功績は大きいにもかかわらず、豊臣家を滅亡に追い込んだこと、その際の権謀術数が嫌われるからである。
慶長3(1598)年8月18日、農民から天下人となった豊臣秀吉が亡くなった。わずか6歳の秀頼への後見を家康らに託しての最期であった。
しかし2年後には、「関ケ原の戦い」が起きる。西軍を率いた石田三成は死罪とされたが、大坂城の秀頼に責めは及ばなかった。とはいえ無傷では済まず、200万石の直轄地は摂津、河内など約66万石まで減少した。
家康は着々と手を打った。慶長8(1603)年には、征夷大将軍に任じられる。しかし、淀殿にも気を使い、孫の千姫を秀頼に嫁がせ、さらに翌年には秀吉七回忌の「豊国(ほうこく)臨時祭」を営ませている。
慶長10(1605)年4月、嫡男の秀忠に将軍職を譲り、「徳川家による将軍世襲」をはっきりと打ち出した。そして翌月、家康は将軍就任祝賀のため秀頼に上洛するよう求めた。しかし、秀頼は拒んだ。拒否できる力がまだ、あったのである。
両家の力量差が逆転したのは、6年後の慶長16(1611)年だった。家康は再び秀頼の上洛を求める。19歳の秀頼は断り切れず3月28日、二条城に赴き、家康と対面した。
「一大名として豊臣家を存続させたい」「それでは将来、仇(あだ)となる」…。家康の心は、二つの考えの間で揺れ動いたことだろう。決断を下した最も大きな理由は、自らの老いだったのではあるまいか。
慶長19(1614)年、方広寺(ほうこうじ)の鐘銘(しょうめい)事件が発生。10月1日、家康は豊臣家討伐を決意した。秀頼も大坂城に浪人を集め、やがて「大坂冬の陣」の幕は切って落とされた。
(渡部裕明)