夕刻の備忘録 様のブログより。
京都大学の藤井教授が提唱する「列島強靱化計画」、その詳細は御自身のHPに掲載されているが、その根本となる考え方は、極めてシンプルなものなので、先ずはそれを勝手にまとめて、勝手に紹介させて頂こう。音楽でも聴きながら、気楽に読んで頂きたい,
http://www.youtube.com/watch?v=zDq5dvW9Gy0&feature=related
「強靱化」とは英語でいう「レジリエンス」のことである。これを柳のしなやかさに譬えられている。外力を受け流して、決して折れない。揺れて動くが破壊されることはない。そういう強さをレジリエンスと呼び、その意味で近未来に、再び巨大地震に見舞われるであろう日本列島を「強靱化」しなければならないのだと主張されている。
完全に防ぐことは出来ない、即ち「防災」は難しいが、被害を減らすことは出来る。即ち「減災」を目標に、道路や家屋の耐震設計の見直しを公共投資の形で出来る限り大規模に、出来る限り速やかにするべきだと強く訴えられている。
普段利用率の低い道路も、災害時には「命の道」になる。通常は使わない非常階段が緊急時に命を救う最後の拠り所になるのと同じ理窟である。
★ ★ ★ ★ ★
公共投資やインフラ整備など、こうした話だけ聞けば国策の問題であり、我々には直接関係が無いように思われるだろうが、そうではない。そこで勝手に名付けた「強靱化計画・家庭版」をご紹介しよう。もっと直接的に書けば、「列島」ではなく「日本人強靱化計画」である。
藤井教授の主張をもっとも簡単に、もっとも身近に表現すれば、それは「脱・仕分け」である。民主党が「襟立て女」を看板に、大宣伝している「仕分け」の対極に位置するものが強靱化である。それは「無駄削減」を削減する考え方である。
我々は極めて素直な感覚をもって、言葉を聞き、公の問題を語る。善き言葉には善き内容が附随しており、それが「裏の意味」を持っているとは考えない。言葉の独り歩きが始まった後は、各人それぞれが、その言葉の持つ理想的な意味でのみそれを理解する。
例えば、「被災地の救援に全力で当たっています」と聞かされれば、その実態を疑う前に、「彼も懸命に頑張っているのだな」と誤解する。「速やかに処理し、可能な限りの援助を行います」と聞かされれば、「あと少し頑張ればきっと助けてくれるはずだ」と思い込む。そして、「無駄はダメだ、無駄は減らさねばならない」と警告されると、「なるほど無駄があっていいわけはない、たとえ少しでも無駄を減らさねば……」との強迫観念に取り憑かれる。
襟立て女が利用してきたのは、こうした国民心理である。善良なる国民が誤解することを前提に、麗しき言葉を並べて、己の野望のために人の善意を利用しているのである。
そもそも無駄の定義は何か。
何が無駄で、何が無駄ではないのか。
ここに斬り込まねばならない。
本当にあらゆる無駄を取り除いた世界は、効率だけの世界である。
そこに「保険」は存在しない。バックアップは無いのである。
事故が起こることも、天災に見舞われることも想定していない。
最高の効率を誇る社会は、緊急時に脆弱の極みに変貌する。
「襟立て」の有名な大暴言がある。被災地の方には、何が何でも知って頂きたい鬼畜の発言である。『津波なんてものは、来るまでに時間が掛かるのだから、その間に逃げればいいだけ。百年、二百年に一度の災害の為に、金を使うのは“無駄”である』とほざいていたのである。因みに、震災後もこの発言に対する謝罪の言葉はない。
★ ★ ★ ★ ★
強靱化とは、最高の効率を目指すことを止めて、無駄そのものを仕分けすることである。無駄の中には削って差し支えないものと、それを削ってはアクシデントが起こった際に、大変危険な二次災害をもたらす種類のものがある。それを分けることが必要なのである。これまでのように無駄削減の大合唱に騙されて、「無駄は悪だ」と決め付けられて、一言も反論出来ないようでは困るのだ。
よく例に使われるのが、車のハンドルの「遊び」である。あれは“無駄”である。回した量だけハンドルが切れないのだから“悪”である。こんなものは無くしてしまえ、というのが仕分け連中の発想である。しかし、実際に「遊び」の無いハンドルなど、僅かな腕の動きで車の挙動が大きく変わってしまい、恐くて乗れたものではない。
世に言う「遊び」「ゆとり」「余裕」は、この意味で無駄ではないのである。この部分を断固として守り削減させない為に尽力する。国民にこうした感覚を持って貰うのが、ここで勝手に提唱する「日本人強靱化計画」である。
家庭で、会社で、友人との付き合いの中で、一見無駄に見えるものの中から、緊急時の「保険」になるものを引き出し、特に意識するように注意する。キーワードは、先に挙げた「遊び」らであり、さらには「分散化」であり「複線化」であり「冗長」である。
もし停電になったら、もし食べ物が手に入らなくなったら、と考えるから電池や米、水などの備蓄に思いが至る。通学通勤の電車が運休になったら、と考えるから、たまには他の路線で行ってみようかと思う。こうして各個人が危機意識を持って、日常生活の在り方を再考することが、この国を有事に強い、しなやかでへこたれない国家、レジリエントな国家に変えるのである。
これが列島強靱化を補完する「人の強靱化」である。社会も人も、建物も道路も、常に何らかのバックアップがある状態を保つのが先進国であり、極めて複雑な文化と文明を有する我が国の責務である。
現政府は「列島脆弱化計画」に突き進んでいる。音は同じだが、その中身は「列島狂人化計画」そのものである。国は全く当てにならない。今ほど国民それぞれが、自分自身の力でサバイバルしなければならない時はない。その為には、無駄削減という言葉の響きに騙されず、その中身を精査して、「世の中には絶対に必要な無駄があること」、そしてそれは「無駄の名で呼ぶに値しないものであること」を確認しておく必要がある。
我が国において、本当に無駄なのは民主党だけである。
こちらは遠慮なく削除しよう。
http://www.youtube.com/watch?v=zDq5dvW9Gy0&feature=related
「強靱化」とは英語でいう「レジリエンス」のことである。これを柳のしなやかさに譬えられている。外力を受け流して、決して折れない。揺れて動くが破壊されることはない。そういう強さをレジリエンスと呼び、その意味で近未来に、再び巨大地震に見舞われるであろう日本列島を「強靱化」しなければならないのだと主張されている。
完全に防ぐことは出来ない、即ち「防災」は難しいが、被害を減らすことは出来る。即ち「減災」を目標に、道路や家屋の耐震設計の見直しを公共投資の形で出来る限り大規模に、出来る限り速やかにするべきだと強く訴えられている。
普段利用率の低い道路も、災害時には「命の道」になる。通常は使わない非常階段が緊急時に命を救う最後の拠り所になるのと同じ理窟である。
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公共投資やインフラ整備など、こうした話だけ聞けば国策の問題であり、我々には直接関係が無いように思われるだろうが、そうではない。そこで勝手に名付けた「強靱化計画・家庭版」をご紹介しよう。もっと直接的に書けば、「列島」ではなく「日本人強靱化計画」である。
藤井教授の主張をもっとも簡単に、もっとも身近に表現すれば、それは「脱・仕分け」である。民主党が「襟立て女」を看板に、大宣伝している「仕分け」の対極に位置するものが強靱化である。それは「無駄削減」を削減する考え方である。
我々は極めて素直な感覚をもって、言葉を聞き、公の問題を語る。善き言葉には善き内容が附随しており、それが「裏の意味」を持っているとは考えない。言葉の独り歩きが始まった後は、各人それぞれが、その言葉の持つ理想的な意味でのみそれを理解する。
例えば、「被災地の救援に全力で当たっています」と聞かされれば、その実態を疑う前に、「彼も懸命に頑張っているのだな」と誤解する。「速やかに処理し、可能な限りの援助を行います」と聞かされれば、「あと少し頑張ればきっと助けてくれるはずだ」と思い込む。そして、「無駄はダメだ、無駄は減らさねばならない」と警告されると、「なるほど無駄があっていいわけはない、たとえ少しでも無駄を減らさねば……」との強迫観念に取り憑かれる。
襟立て女が利用してきたのは、こうした国民心理である。善良なる国民が誤解することを前提に、麗しき言葉を並べて、己の野望のために人の善意を利用しているのである。
そもそも無駄の定義は何か。
何が無駄で、何が無駄ではないのか。
ここに斬り込まねばならない。
本当にあらゆる無駄を取り除いた世界は、効率だけの世界である。
そこに「保険」は存在しない。バックアップは無いのである。
事故が起こることも、天災に見舞われることも想定していない。
最高の効率を誇る社会は、緊急時に脆弱の極みに変貌する。
「襟立て」の有名な大暴言がある。被災地の方には、何が何でも知って頂きたい鬼畜の発言である。『津波なんてものは、来るまでに時間が掛かるのだから、その間に逃げればいいだけ。百年、二百年に一度の災害の為に、金を使うのは“無駄”である』とほざいていたのである。因みに、震災後もこの発言に対する謝罪の言葉はない。
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強靱化とは、最高の効率を目指すことを止めて、無駄そのものを仕分けすることである。無駄の中には削って差し支えないものと、それを削ってはアクシデントが起こった際に、大変危険な二次災害をもたらす種類のものがある。それを分けることが必要なのである。これまでのように無駄削減の大合唱に騙されて、「無駄は悪だ」と決め付けられて、一言も反論出来ないようでは困るのだ。
よく例に使われるのが、車のハンドルの「遊び」である。あれは“無駄”である。回した量だけハンドルが切れないのだから“悪”である。こんなものは無くしてしまえ、というのが仕分け連中の発想である。しかし、実際に「遊び」の無いハンドルなど、僅かな腕の動きで車の挙動が大きく変わってしまい、恐くて乗れたものではない。
世に言う「遊び」「ゆとり」「余裕」は、この意味で無駄ではないのである。この部分を断固として守り削減させない為に尽力する。国民にこうした感覚を持って貰うのが、ここで勝手に提唱する「日本人強靱化計画」である。
家庭で、会社で、友人との付き合いの中で、一見無駄に見えるものの中から、緊急時の「保険」になるものを引き出し、特に意識するように注意する。キーワードは、先に挙げた「遊び」らであり、さらには「分散化」であり「複線化」であり「冗長」である。
もし停電になったら、もし食べ物が手に入らなくなったら、と考えるから電池や米、水などの備蓄に思いが至る。通学通勤の電車が運休になったら、と考えるから、たまには他の路線で行ってみようかと思う。こうして各個人が危機意識を持って、日常生活の在り方を再考することが、この国を有事に強い、しなやかでへこたれない国家、レジリエントな国家に変えるのである。
これが列島強靱化を補完する「人の強靱化」である。社会も人も、建物も道路も、常に何らかのバックアップがある状態を保つのが先進国であり、極めて複雑な文化と文明を有する我が国の責務である。
現政府は「列島脆弱化計画」に突き進んでいる。音は同じだが、その中身は「列島狂人化計画」そのものである。国は全く当てにならない。今ほど国民それぞれが、自分自身の力でサバイバルしなければならない時はない。その為には、無駄削減という言葉の響きに騙されず、その中身を精査して、「世の中には絶対に必要な無駄があること」、そしてそれは「無駄の名で呼ぶに値しないものであること」を確認しておく必要がある。
我が国において、本当に無駄なのは民主党だけである。
こちらは遠慮なく削除しよう。