4万人が縁結んだ阿弥陀像。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








【決断の日本史】1212年12月24日




法然の愛弟子・源智が一周忌に造立

 人が亡くなると、1年後や2年後、6年後など節目となる命日に法要が営まれる。一周忌や三回忌、七回忌など「年忌」と呼ばれる追善(ついぜん)供養である。年忌に際しては、故人をしのぶ品々が奉納されることがある。

 東京国立博物館で始まった特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」(12月4日まで)には、浄土宗の開祖・法然の一周忌を約1カ月後に控えた建暦(けんりゃく)2(1212)年12月24日に造立された仏像、木造阿弥陀如来立像(りゅうぞう)(重文)が出展されている。

 高さ約1メートルと小さな像ながら、引き締まった表情などすぐれた作品で、表面の金箔(きんぱく)も美しく残っている。昭和49年、滋賀県甲賀(こうか)市の寺で偶然に発見され、法然ゆかりの像とわかって注目された。胎内に納(おさ)められていた古文書が、像にまつわる由来を物語っていたのである。

 《法然上人の弟子である私、勢観房源智(せいかんぼうげんち)(1183~1238年)は、上人より受けた恩徳に報いるため多くの人々と縁を結び、この像を一周忌に造り上げました》

 このような造立願文(ぞうりゅうがんもん)のほか、約4万6千人からなる結縁交名(けちえんきょうみょう)(仏像と縁を結んだ人名簿)が納められていた。リストには後鳥羽上皇や平清盛、源頼朝、頼家らすでに亡くなった有名人をはじめ、東北地方の庶民と考えられる名まであった。

源智は平重盛の孫にあたる人物で、法然の最期を看取(みと)った愛弟子である。生前の師の姿をしのびつつ、像の造立に当たったのであろう。

 仏師の名は伝わらないが、研究者は快慶やその弟子・行快(ぎょうかい)の作風に近いと見る。像が発見されたのは真言宗寺院で、今年法然八百回忌を迎えた浄土宗が「ぜひに」と頼み込み、譲ってもらった。その流転の不思議さも、私たちの胸をうつのである。


                                     (渡部裕明)